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大山名人に弱冠20歳で挑戦した「神武以来の天才」

 タイトル戦出場の年少記録を紐解くと、初めて20代の棋士がその大舞台に立ったのは、1948年の第7期名人戦。当時25歳の大山康晴八段(段位は当時、以下同)である。「高野山の決戦」と呼ばれた升田幸三八段との名人戦挑戦者決定戦を制して、塚田正夫名人への挑戦権を獲得した。

 この時は塚田に一日の長があり、名人獲得とはならなかったが、大山はのちに1950年の第1期九段戦で初タイトルを獲得し、また名人戦では第11期名人戦で木村義雄名人を破って初戴冠。以降「不世出の大名人」としての地位を着実に固めていく。

 その大山名人に弱冠20歳で挑戦したのが「神武以来の天才」こと加藤一二三八段である。1960年の第19期名人戦だ。第1局は加藤の快勝で「すわ20歳名人なるか」と騒がれたが、当時は百戦錬磨の大山が貫禄勝ちした。加藤が大山を破って初タイトルを獲得したのは1969年の第7期十段戦である。この時の第4局で一手に7時間かけて発見した一着を「素晴らしい決め手」であると加藤は振り返っている。

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 先輩、同輩、後輩をことごとく葬り去ってきた大山はタイトルを独占し続け、1950~60年代はまさに大山一強の時代であった。それを如実に示すのが、大山が持つ「タイトル戦連続出場50期」という不滅の大記録である。大山は1957年の名人戦から1967年の名人戦まで、この10年間に行われていたタイトル戦番勝負50期に全て出場していた。50期のうち獲得は44期、取られても翌年に勝ち上がって挑戦権を得、タイトルを奪い返していた。なお羽生善治九段も自身の七冠獲得前後にすべてのタイトル戦に出続けていたが、それでも3年間、23期である。

 
 
 

「大山先生は記録への執着が強かったから」

 この大山の偉大な記録に終止符を打ったのが、当時20歳の中原誠五段である。1967年の第10期棋聖戦で山田道美八段に敗れて棋聖位を失った大山は、第11期での奪回を目指して勝ち進んでいたが、1967年11月21日に行われた棋聖戦準決勝で中原に敗れて、連続出場の記録が止まった。

「大山先生がタイトル戦に出るのは当然の時代だったが、止まったことはそれほど騒がれなかった。ただ、先生は記録への執着が強かったから、かなり悔しかったんじゃないかな」と中原は振り返る。

 そして「私自身は大山先生との初手合いだったので、そちらを意識していた。思い出すのは私がいるにもかかわらず、盤側で新聞社の方と棋聖戦五番勝負の日程を調整していたこと。さすがにいい気分じゃなかったね」とも語った。

 難攻不落の居城を攻め落とした中原は、続く挑戦者決定戦でも板谷進六段(のちに九段、藤井七段の大師匠である)を下して山田棋聖への挑戦権を獲得。このときは敗れたが、続く第12期棋聖戦で再び挑戦権を獲得し、初タイトルを奪取。20歳10ヵ月でのタイトル獲得は、それまで大山が持っていた27歳3ヵ月を大幅に上回る年少記録となった。のちに中原は24歳で名人を大山から奪い、棋界は大山時代から中原時代へと移り変わっていく。