こういうジャンルの小説を書こうというように決めて書くことはほぼないです
――当時、『文學界』の編集部にいた白石一文さんが、「Water」を読んでこれは素晴らしい、プロの文章だと思ったのに受賞しなかった、という話を「作家の読書道」でインタビューしたときに語ってました。
吉田 そう、その頃は白石さんがいらしたんですよね。その1年後に「最後の息子」(『最後の息子』所収、99年刊/のち文春文庫)で文學界新人賞を受賞したんですが、それから芥川賞をもらうまでの5年間、本当によく文學界の編集部には通いましたよ。まず夕方に原稿を持っていくんですよ。そこで編集担当者や編集長に読んでもらって、そこから凹むほどの赤が入ったものが戻ってきて、それを持って空いてる文春の会議室に入って、朝の4時や5時まで書き直しですよ(笑)。豪華な弁当の夜食が僕の分まであって、それが嬉しくてね。僕は大学が文学部ではないんですが、僕にとってはこの文學界編集部に通った5年間が文学部だったんでしょうね。
今もそうだけど、当時もとにかく必死でしたね。あれから20年ちかくずっと必死。あの頃は文春の会議室で、今は家で、というだけで、同じことを20年間繰り返しています。
――『最後の息子』とその次の『熱帯魚』(01年刊/のち文春文庫)と短編集が続き、次の『パレード』が連作形式の長編で、いきなり山本周五郎賞を受賞する。純文系の人がいきなりエンタメ系の賞を獲った、という印象でした。でも『パレード』はエンタメ寄りのものを書こうと思ったわけではないですよね。
吉田 こういうジャンルの小説を書こうというように決めて書くことはほぼないです。毎回、どういう人間を書きたいか、それだけです。たとえばAさんを描く時にはAさんの恋愛を描くのが一番、Aさんの姿が浮き出てくると思えば恋愛小説になる。また、Bさんを描くならBさんの寂しさを描くべきだと思うと、そういう文体になる。
――じゃあ、そのAさんやBさんというのはどこから生まれるんでしょうね。
吉田 ほんとに。どこから生まれるんでしょうね。気がつくと、そばにいるんですよね。
――ところで以前、文藝春秋の方が作ったブックレットに、確かに「自分なりの純文学として書いたのがこの『パレード』でした」という著者コメントがありますね。
吉田 それはちょっと後付けかもしれないけれど(笑)、エンターテインメントを書いているつもりはまったくなかったんですよ。
さっきもいったように、出会う人なんですよ。最初は文學界で鍛えられた。ありがたいことに、そこには、「こいつの文章をうまくしてやろう」と思ってくれる編集者がいたわけです。そしてまた、「こいつに芥川賞を獲らせてやりたい」と諦めずに思ってくれる編集者もいた。そうこうしているうちに、『パレード』の担当編集者のような人が現われて、「もう少し広い世界をみてみませんか」と書き下ろし長編にチャレンジさせてくれたんです。
お陰で山本周五郎賞をもらい、続けて芥川賞も受賞できた。するとまた今度は、「この作家を絶対に売れっ子にしてやるんだ」というようなことを言ってくれる編集者に出会える。そのおかげでテレビドラマや映画化という道を見せてもらえる。
その後も本当にいろんな編集者に導かれてここまできたんだと思いますよ。こういうことを公言すると、みなさん照れて、白けるみたいですけど(笑)。
でも、本当にそうなんだから仕方ない。映像化に関しても、ありがたいことに僕の作品を面白がってくれる同時代の映画監督やプロデューサーがいる。ただ、彼らはもちろん、担当の編集者だって、僕の作品から刺激を受けないようになれば離れていくわけですから、こっちは日々必死ですよ。
――『悪人』の時は、李相日監督と共同で脚本も書いてください、と言われたんですよね。
吉田 いえ、自分から書かせてくれと頼んだんです。本当にもう『悪人』という作品と心中でもするつもりで(笑)。ただ、そうやって勇気を出して別の世界へ出かけていけば、李相日さんのような素晴らしい映画監督やプロデューサーに出会えるわけです。だから繰り返しますが、本当に、そういう人たちとの出会いがなかったら、相変わらず居候の部屋で今も小説を書いているはずですよ(笑)。