文春オンラインでは教育ジャーナリストの小林哲夫さんによる「『灘高校1979年卒』の神童は、大人になってどうなったのか?」で、華麗なる経歴を持つ、名門進学校・灘高校の“1979年卒業者”たちを紹介した。
今回「灘高校1979年卒」にして、精神科医から映画監督までマルチに活躍する和田秀樹さんが著書『灘校物語』を刊行。自身の灘校時代を振り返りながら執筆した本作でも語られた、個性豊かな“神童たち”との青春時代を小林哲夫さんが聞いた。
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酒屋の息子でも入れる普通の中学校だった
――『灘校物語』は“自伝的小説”ということで、ご自身の灘校時代を振り返っています。改めて、和田さんは中学受験で灘に進学されたんですよね?
和田 そうです。小説にも書いているんですが、ひょんなことから灘中の存在を知って。それまでは全然眼中になかったし。というのも、灘はもともと名門進学校なんかじゃなかったんですよ。
――え? そうなんですか?
和田 戦前の話になりますが、当時は神戸高校の前身・神戸一中が関西で随一の進学校だったと聞いています。しかし、戦後にだんだんと国が豊かになって、親たちが「子供を大学に入れたい」と考えるようになり、中学から子供の進学先を考えるようになったんです。だけど、当時大学を目指せた神戸一中に入るのはあまりに難しすぎたので「酒屋の息子でも入れる普通の中学校を作ってしまおう」と菊正宗などの酒造業者が先導して創設されたのが灘中学。
――そんな歴史があったんですね。
和田 ちなみにそんな出来たばかりの旧制の灘中学校から初めて旧制高校に合格したのが遠藤周作のお兄さんです。そんな歴史の名残もあってか、僕の母は公立高校派。北野高校とか天王寺高校に僕を入れたがっていました。
開成や日比谷を抜いて東大合格者数で全国1位
――でも灘も今では日本有数の進学校です。
和田 学区制が導入されて、神戸高校へ行ける範囲が大幅に狭まり、代わりに灘への受験者数も増大したこともあり、いつの間にか京都大学の合格者数が全国で1位になるんですよね。そこでふと「京大にこんなにも受かるなら、東大にも受かるんじゃないか」と大量に東大を受けた年があって。そこから東大への進学率も伸びていったそうです。
実際に、昭和43年に開成や日比谷を抜いて東大合格者数で全国1位になっています。これもよく「学校群制度(※)のおかげだ」なんて言われますが、当時の灘の卒業生が220人に対して日比谷高校は倍以上の450人。その差は歴然としています。ついでにいうと学校群制度になってからの第1回の卒業生が出たのは、その2年後の45年の話です。もう1年早く灘が東大合格者数1位になっていたら、学校群制度の導入は見送られていたかもしれませんね。
※学校群制度…いくつかの学校を学区ごとにまとめ、その中で合格者の学力が平均になるよう、ランダムに振り分ける制度。