1ページ目から読む
5/9ページ目

慶大生と美しい令嬢の出会い

 五郎君の母松枝さんは彼が7つのとき三児を遺して死んでいった。その翌年光子さん(37)という第二の母が迎えられ、その母はたちまち7人の異母弟妹をうんだ。五郎君も妹の幸子さんも異母弟妹の殖えるごとにだんだん第二の母から存在を否定されていくような気がした。別に虐げられるわけではないが、何故か五郎君は日毎の家庭生活に真夏の冷蔵庫に入ってゆくような冷やかさを感じていった。

 その反面亡き母を恋う心は加速度的につのっていった。既にそのころ7歳になっていた五郎君の脳裡にはいとしき慈母の面影がいつまでも深く強く灼きつけられていたからであった。五郎君は母恋う心にたえかねて妹幸子さんと墓場に母の墓標をしっかと抱いて慟哭したこともいくたびかあった。

©iStock.com

 五郎君がこの寂寥感からの脱却、そして心の憩い場として求めたのが自宅に近い三光教会であった。八重子さんを知ってから母恋う心も次第にうすらぎ母の墓場への路も自然遠くなっていった。五郎君から打明けられていたので父の定氏は2人の仲をよく識っていた。子煩悩な定氏は来年学校を卒業したらすぐ結婚させ新家庭を持たせてやろうと敷地も物色、家の設計まで考えていたほどだった。

ADVERTISEMENT

 その頃八重子さんは健康を理由に生家へ呼び戻され裾野の自宅から和裁と活花のけいこに毎日沼津へ通っていた。肉体の別離は2人の恋ごしろを一層しれつにし交わす恋文もひとしおその数を増していった。そして、東京から、沼津から、2ツの魂は大磯にあるいは国府津に、相寄っていくようになった。国府津の浜や大磯の山々に楽しく語らいゆく2人の姿がよく見られたのもこのころである。

進展する2人に八重子の「縁談」が持ち込まれる

 こうした楽しかるべき逢う瀬の或る日八重子さんは悄然として双眼に涙さえうかべて国府津駅で下り列車に五郎君を出迎えた。いつもの『つたや旅館』に引揚げると彼女は無言のままふところから一葉のキャビネ版の写真をとり出してそっと五郎君の前に置いてわッ! とその場に泣き伏してしまった。写真は目もあやなる振袖の八重さんの晴姿であった。だがその写真はいつもの明るい八重子さんの顔にも似ずどこか寂しく暗い陰影さえただよっていた。

 八重子さんはしとやかでうちきなお嬢さんだったから五郎君との関係を両親に打明ける機会を失していた。その矢先東京のM牧師からの縁談が八重子さんの両親の許へ持ち込まれていた。Mにおくるべく両親の強制によって余儀なく撮らせられたのがこの写真であった。急速に進展してゆくMとの縁談に八重子さんは絶対絶命の窮地に追い込まれていたのだった。やがて八重子さんはむっくり顔をあげた、その顔はすっかり涙に濡れている。

『ね、五郎さんいきましょう、お母さんのところへ、あなたの大好きな……』

 彼女のひととみは輝いていた。五郎君は八重子さんの手をとった。4本の手はかたくかたく握り交わされていた。

 2人が母眠る東京麻布富村町本光寺への路を青葉の坂田山に発見したのはそれから20日余り後のことであった。

©iStock.com