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連載昭和の35大事件

2019/12/29

source : 文藝春秋 増刊号

genre : ニュース, 社会, 歴史, 政治, メディア

女性の死体は箱の中から消えていていた

 町の家々は夕餉の食卓をかこんで今日の慶応の学生と美しいお嬢さんの情死事件の話で持ちきりだった。その翌る朝――

『ほんになア、どんな事情があったか知らねえが、死ななくともよかりそうなものを、可哀相なことをしたもんじゃ、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ』

 と、くゆる線香を片手に墓守の平野さよさん(44)は昨夕葬られた2人の新しい土饅頭に近づいていった。だがその土饅頭の一つは昨日の夕、人夫たち歩引揚げていったあとさよさんが花を供え線香を手向けたときとは全く一変し、墓は無惨に暴かれ辺りに錦紗の長襦袢、帯、フェルト草履などが散乱していた。墓場の大異変にさよさんは肝をつぶした。

 彼女の知らせで大磯署から千葉署長、富士川司法主任が10人余りの制私服をつれて駈けつけてきた。棺は土中に埋っているらしいが果してその棺の中に死体があるかどうかに関心は集中した。今日は長吉爺さんもきていた。子分たちと共に警官の指図に従って静かに墓場を掘り返していった。間もなく棺が見えてきた。いく十の緊張した警察宮の眼が集中している。やがて長吉爺さんの手によって棺のふたが取り除かれた。一瞬警察官たちの顔色がさっと変った。美女の死体は箱の中から消えていて、残っていたのはフェルト草履の一方だけだった。

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 大磯署は直ちに捜査会議を開き、

 ㈠女に第二の恋人があって愛人いとしさに死体を盗み出したか

 ㈡変体性慾者の仕わざか

 ㈢着衣を狙った単なる泥棒か

 ㈣迷信による死体損壊か? 

 で評議を重ねたが結局第一と二に重点を置くこととし、先決問題としてまず死体の捜索を急ぐことに決り消防団まで狩り集めて、山岳地帯、空別荘、古井戸、海岸地帯と十数班の捜さく隊を編成しての大捜さくが開始された。

「そうか、やはりあの2人だったのか……」

 この騒ぎのさなか東京者らしい2人の若い男女が早朝大磯署を訪れきのうの夕刊からT紙に載っている坂田山で情死した2人の遺留品を見せてくれ、と申出た。係員がすぐ、刑事室から2人の枕辺にあった遺留品と遺書を持ち出してそこへならべた。女は一目みるなり、わッと泣き伏した。

『そうか、やはりあの2人だったのか……』

 男は沈痛な面持ちで『青い鳥』の表紙をなでていた。訪れた2人によって情死したのは東京芝白金三光町八二調所定氏長男慶応大学経済学部3年五郎君(24)と、静岡県駿東郡富岡村御宿一五湯山昭作氏長女八重子さん(21)と判った。警察を訪れているのは五郎君の遺書にある妹の幸子さん(21)、男は五郎君の学友木村俊夫君であった。

 五郎君の父定氏は調所男爵家の出で当主調所一郎氏の叔父、八重子さんは裾野きっての素封家で百万長者といわれる裕福な家に生れ東京の頌栄高女時代からクリスチャンとなって日曜ごとに三光教会に通っていた。五郎君とはそこで知り合った。

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