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人と人と、歌と歌を重ねることによってふと見えてくるものがあるんですよね――北村薫(1)

話題の作家に瀧井朝世さんが90分間みっちりインタビュー 「作家と90分」

2016/06/25

genre : エンタメ, 読書

note

間違った解釈ではなく、よい解釈と悪い解釈があるんですよね

――だからこそ、解釈にもさまざまな余地がある。胸がきゅんとしたのは、木下龍也さんの「つむじ風、ここにあります 菓子パンの袋がそっと教えてくれる」の北村さんの解釈です。「つむじ風」を「うずまきパン」のことだと思ったという。詳しくは本で読んでいただくとして、いかにも円紫さんと〈私〉シリーズの〈私〉が考えそうな解釈だと思って、ときめきました。

北村 解釈はそういうものであって、間違った解釈ってないんですよ。ただ、よい解釈と悪い解釈があるんですよね。

 自分でも明らかにこの解釈は違うと思うこともありますね。小林幸子の「少年の騎馬群秋の空を駆け亡き子もときの声上げてゆく」というのも選んでいますが、あれは私はイワシ雲がいっぱいあって、それぞれが一頭の馬である様子を思い浮かべたんですよ。でも、本にも書いたけれど、「騎馬群」と「ときの声」とくれば、おそらく運動会の騎馬戦だというのが正しいんだろうなと思います。でも騎馬戦だと下に3人子どもがいるわけでしょう。その子たちは下にして、自分の子が上にいるというのはどうかと思う。そんなこと知ったこっちゃないというのが母親の思いなんだろうけれど。だけど私はそれは嫌なんです。…というところがありますからね、解釈には。それにしても、全部読んでくださったんでしょう? 梅津ふみ子の「ねこだからおまへを愛した手放しで泣けたおまへが猫だつたから」なんて、辛かったんじゃないかと思って。

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――う、私が最近猫を亡くしたことを思ってくださってお気遣いありがとうございます……確かにあれは刺さる歌でした。ところで、ご自身では歌は詠まずにあくまで“読む”側なんですね。

北村 それはやはり分野が違いますからできないですよね。剣と槍の違いというかね。サッカー選手が砲丸投げをできるわけじゃないのと同じです。ただ、それが表現であるからには、読むということはできる。でも本にも書いた通り、作らない者には分からないといってバリアが張られることがありますね。文芸評論家の山本健吉でさえ実際に俳句は作らないからといって「やつの言うことは信用しない」と言った俳人がいました。それも表現でありますけれど。我々は誰しも成長する過程で短歌に接してきているわけで、そうするとやっぱりこの表現は素晴らしいなと思ったりするわけです。そこで作っていない人はこの花園には入ってはいけないよと言われると、それは残念な気がします。他の人もどんどん読んで、短歌のこういうところが面白いんだよ、と言えればいいんですけれども。

――「自分で作らない人には分からない」という言い分に関してはどう思いますか。

北村 そういう部分は確かにあると思うんです。本格ミステリーに置き換えてみれば、何かの賞を受賞した本格ミステリーについて「これは本格なのに本格の部分が評価されないで、小説の物差しを当てられちゃって、それはちょっと違うよ」ということが、本格を愛する人間として出てくるようなものです。「物差しが違うよ」というのは確かにあるでしょうね。短歌は短歌の見方があって、他の人には分からないんだと言われれば、そういう面は確かにあると思います。それを専門にやっている方にしか分からない部分はあるんでしょうけれども、でも言葉で作られている表現なんだから「僕にもちょっと食べさせてよ」って言いたくなる。「僕が食べてもいいじゃない。きっとおいしいに違いない」って。