初の単行本『スコーレNo.4』が生まれるまで
――2004年、妊娠中に書いた作品で文學界新人賞の佳作に入選します。入選作の「静かな雨」は単行本未収録ですが、どのような内容だったのですか。
宮下 20代の男の子の話で……いや、ちょっと恥ずかしいですね。タイトルも最初は「月に降る静かな雨」で、「変えたほうがいいです」と言われて。確かに今考えると「月に降る静かな雨」は叙情的すぎますよね。本当にタイトルのつけ方も分かっていませんでした。
――初の単行本は3年後の『スコーレNo.4』(07年刊/のち光文社文庫)。これは書き下ろしでしたよね。どういう経緯だったのでしょうか。
宮下 まず「静かな雨」を読んでくれた角川書店の編集者が「アンソロジーに参加しませんか」と言ってくれて短篇を書いたんです。それが6人で書いた『コイノカオリ』(04年刊/のち角川文庫)という本なんですけれど、私以外の人が本当にすごくよかったので、こんなラッキーなことがあるんだなと(笑)。そうしたらそれを読んだ講談社の編集者が、当時あった『エソラ』という雑誌と『小説現代』に短編を一作ずつ書かせてくれたんです。それを読んだ光文社の編集者が「書き下ろしをやりませんか」と言ってくれたという。
――巡り巡ってますね。でもその版元ではじめて書くのにいきなり書き下ろしって、なかなかないですよね。
宮下 そうなんです。「たぶん長く好きなものを書いてくれたほうが、きっと持ち味が出るから」と言ってくれて。「とにかく好きなものを好きなだけ書いてみてください」って。それがすごくよかったですね。当時は娘もまだ赤ちゃんでしたし、上の男の子2人も手がかかるし。もしもその時期に依頼がいくつも来ていたら、全然対応できなかったと思うんです。でもポツポツと1個ずつ依頼が来る感じで、しかも光文社の人は「時間がかかってもいいから自分のいいペースで書いてください」ということだったから、私も書くことができました。最初はものすごくスローペースでしたね。子どもが小さい頃は夫の仕事の都合で京都にいたのかな。まわりも知らない人ばかりだったし、てんやわんやだったので、そこで無理しないですんでよかったです。そういう意味でもラッキーでした。でも依頼をくれた光文社の女性が途中で部署を異動することになってしまって、「やっぱりこの時期までには書いてくださいね」と言われて「えーっ」となったんですけれど(笑)。すごく幸せでした。本当に好きなように書かせてもらったんです。私はすぐに面倒くさいと思ってしまうので、ああいう気持ちでできることって、小説以外にはなかなかない。「静かな雨」や『スコーレNo.4』を書いた時のすごく楽しかった、という感覚は今もずっと残っていますね。
――なぜ「スコーレ(学校)」というモチーフを思いつかれたのかおぼえていらっしゃいますか。
宮下 家で飲んでおいしかったワインの名前が「レコール No.41」(フランス語で41番目の学校という意味)でした。41も学校があったらいやだなぁと思って、ほんとうは学校っていくつ必要なんだろうって思って、そもそもほんとうに必要な学校ってどんな学校だろうって思って。主人公の少女が、4つの学校を経て大人になっていく物語を書こうと思いつきました。