困難な時代を生き抜いた人のモチベーションを書きたい
――書きたい世界、というのは実際に作品を読むと伝わってきますが、ご自身の言葉で言うと?
川越 抽象的に言うと、困難な時代に生きるモチベーションみたいなところですね。わりと平和で暮らしやすい21世紀の今でも、布団から出たくない日はやっぱりある。絶望して命を絶ってしまう人もいる。そんな今よりはるかに困難な時代に諦めずに生きた人がいたから21世紀現在、人類は生き残っている。そういう時代に生きた人たちのモチベーションは何だろう、というのを書いてみたかったんです。
――以前『熱源』についてインタビューした時に印象的だったのは、「結果的に自己決定していく人たちの話になった」という言葉です。
川越 突き詰めると、生きるって自己決定だろうと思うんです。人権とか自由とかを突き詰めると自己決定権にあるんじゃないかと思います。アイヌの同化政策について何が嫌だと感じるかというと、文化を失われるということ。自分が何をするのかを勝手に人に決められてしまうことなんですよね。
それはすごく、言葉を選ばずに言いますけれど、けたくそわるいというか。自己決定できないというのは一番理不尽で、それが当時の混乱の正体だと感じます。でもそこでも、モチベーションを失わずに生きていく人たちがいたんですよね。
「強いも弱いも、優れるも劣るもないない」の真意
――作中の「強いも弱いも、優れるも劣るもない。生まれたから、生きていくのだ」という言葉が印象に残りました。それに、強いものが悪いみたいな書き方ではないんですよね。
川越 そうそう、そういうふうに書きたかったんです。みんなが大変で、こっちの理不尽がまた別の理不尽を生むという連鎖があったりする。一方的に悪者というのはなかなかいないだろうなと思いました。裏のテーマとして、近代日本の第一章の話というふうに書きたかったのはあります。西南戦争が終わったくらいに明治日本が誕生した流れを書きたかった。自分の住んでいる国の、かつての一時代を。
そういう意味では、弱者というものに興味があるのではなくて、弱者に追いやる社会のメカニズムであったりとか、そこで生まれる個人の危機に興味がある感じですね。それだと当然強者にも個人的危機はあるので、今後それが面白いとそっちを書くと思います。
だから、「弱者に寄り添う」みたいな視点にはたぶん僕はあまりしないと思います。もちろん弱者はいないほうがいいですし、社会的にそういう人たちの不幸が最小限にとどまるようにしたほうがいいと思うんですけれど、カジュアルに「弱者に寄り添う」といわれても鬱陶しいんじゃないかな、と言う気持ちがあります。すみません、うまく言えないんですけれど。
――ヤヨマネクフやピウスツキはもちろんだと思いますが、他に作中の実在の人物で思い入れのある人物は誰ですか。
川越 前半に出てくる、北海道の村で威張り散らして西郷従道にたしなめられる鹿児島出身の永山准大佐という人には思い入れがありますね。永山武四郎です。嫌な奴という書き方はしたんですけれど、当時の時代の雰囲気の中では普通の人なんですよね。その普通の人の感覚で一生懸命頑張っていた人というイメージです。鹿児島弁丸出しで従道と喋るシーンは、書いていてテンションが高かったですね。今読み返しても涙ぐんでしまうんです。いいシーンを書きました、と自画自賛で(笑)。