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連載昭和事件史

鎌倉時代から続く“丁稚奉公制度”を壊した「書店ストライキ」は時代の転機だった

鎌倉時代から続く“丁稚奉公制度”を壊した「書店ストライキ」は時代の転機だった

“小僧”と呼ばれた少年たちのストライキ #2

2020/03/22

「小僧のストライキ」の幕引き

 同じ紙面には「巖松堂も解決 きょう店の前で解団式を」の記事も。

「神田巖松堂店員争議団代表は17日午後1時から巖松堂重役と最後の会見を遂げた結果、7時に至り、結局大体において店員の要求を入れた『一、小店員の意思を尊重するため、店員の委員を選んで交渉することを認める。一、賃金10円中5円を強制貯金していたのを廃して10円を与える。一、作業服、寝具を与え、食料は玄米を廃して白米に改める』などを認めたので、一切の解決を見、18日午前10時、同店前にて解団式を行うこととなった」

 3月21日付東京朝日夕刊に「岩波の争議 全く解決」の見出しで記事が出ている。

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「岩波書店の争議のうち、小店員30名は去る17日から仕事を始めているが、20日午前9時、その他の店員25名も店主側の対案を入れて21日から従業することになり、争議は全く解決した。店主の案は次の通りである。一、店員の初任給制度制定。二、時間外勤務に手当支給。三、寄宿舎その他衛生設備の改善。四、娯楽的会合を年2回以上催す」。これが「小僧のストライキ」の幕引きだったようだ。

争議解決を伝える東京朝日

「物語岩波書店百年史」が引用する実業之世界の記事によれば、20日に争議団が休戦を申し入れ、支配人は自宅待機を命令。出勤の連絡で22日に出社したところ、ストライキの主謀者5人の解雇が言い渡されたという。争議団から「小僧」たちを引きはがして分断。ストライキの中心人物を解雇するという巧妙な戦術。誰かの知恵が働いたのは確かなようだ。

 岩波書店の「正史」である「岩波書店 八十年」は事件のことを短く説明している。「全く未経験かつ予期せぬ事件であったため、意見の一致に手間取り、解決が遅れた」

「労働者の敵とは即断できぬ」岩波茂雄とはどんな人物だったのか

 岩波茂雄は1881年、長野県生まれ。旧制一高(現東大教養部)を中退し、東京帝大(現東大)選科(高校卒業資格のない生徒のクラス)卒業。教員生活の後、1913年に古書店を開業。出版業に進出し、夏目漱石の「こころ」を初出版。「哲学叢書」「漱石全集」などで業界に不動の地位を確立した。その後も「岩波新書」などを刊行。出版事業を通して「岩波文化」の名を定着させた。戦後、文化勲章を受章。自由主義的な言動で知られていた。

 村上一郎「岩波茂雄と出版文化」は「岩波茂雄は、部下に対して決して冷酷無残ではなかった。安倍(能成)が書いているように家族的でもあった(特に大正時代―昭和初頭)。しかし、だからといって、ストをやられ、ひどいデフレやインフレを経るまで、彼の店員に対する経済上の待遇が親身であったなぞとは、お世辞にも言うことはできまい」と述べる。

岩波茂雄 ©共同通信社

「だからこそ、『岩波書店』というインテリ出版屋ができても、大学卒業生なぞ、そうすぐには寄りつきはしなかったのであり、そういう途(みち)が互いに開けたのは、やはりストがあって後である。昭和3年のストが、だからといって方向として正しかったかどうかは別であり、岩波がこのストに大層強引に出たからといって、またスキャップ(ストライキ時の代替労働者)をつくるのにうまかったとて、岩波が労働者の敵であるなぞと即断はできない」