鎌倉時代から続いてきた「丁稚=小僧」
戸川猪左武「素顔の昭和 戦前」は、この書店の「小僧ストライキ」に触れた際、著者の記憶としてこう書いている。
「昭和初期には、私の幼少、少年期に残っている記憶をたどっても、呉服屋、酒屋、あるいは米問屋などの商店は、“お店”といわれる大どころから、その中どころの店まで丁稚を抱えていた。彼らは三食付きの住み込み。安い給料で、本来の店の仕事のみならず、早朝の雑巾がけから主人の子どものお守りまでさせられるのが普通であった」
ところで「丁稚=小僧」はいつから存在したのだろう。
竹内洋「立身出世主義」によれば、丁稚の語源はいくつかあるが、「こうした丁稚制度は鎌倉・室町時代に始まり、江戸時代中期以降広まった、といわれている」という。「丁稚は親戚の子弟、あるいは取り引き先などの紹介によって10歳前後に採用される。永年勤続を期待するから、通常次男以下が採用される。最初は小僧、坊主、子どもなどと呼ばれ、主人のお供や子守り、掃除など雑用に使われる。
15、6歳に半元服すると、本名に『吉』とか『末』を付けて呼ばれる。『長太郎』の場合は『長吉』とか『長末』とかになる。呼び名が簡単だからである。荷造りや金銭、商品の受け渡しなどをして手代の仕事を手伝うようになる。この間は禁酒・禁煙であり、夜には読み書き、算盤、習字などの稽古をする。17、8歳で手代となる。名前も本名となる。羽織や表付きの下駄を用いることが許される。その後約10年、30歳前後で番頭に昇格する」(同書)。
「全力をもってこれに集注せば大きな栄光の冠を得んこと難からず」
「暖簾分け」の年功処遇も行われた。プラス面を言えば、店は学校の役割も果たしていた。ただし、実際には雇い主がいろいろな理由で“間引き”をするため、丁稚から暖簾分け待遇までになったのは100人中3~5人、多くても1割だったという。
「商家丁稚の学校」などといった「小僧」に読み書きを教える本や、「小僧の使い方」に関する「指導本」も明治時代から出ていた。「通俗小僧学問」「新小僧読本 成功秘訣」……。1903年に出版された山本邦之助「理想的会社員」にはこんなことが書かれている。「小僧のごとき下級の者にても、一定の目的を定め、全力をもってこれに集注せば大きな栄光の冠を得んこと難からず」。当時の「小僧」に対する視線がうかがえる。
「三越小僧読本」は明治末年、当時の三越百貨店が作成した「商人の心得」と「接客の心得」を集約した指南書。「三越の小僧にして三越の趣旨を知らざるは『論語読みの論語知らず』なり。三越の小僧にして三越の御客本位をのみ込まざるは『食えども味わい知らず』なり。三越の小僧にして三越の品位を保たず、陰ひなたをなすは『頭隠して尻隠さず』なり」の3項目を第1条とする全10カ条で、大正時代以降は大学卒社員の教育にも活用されたという。
青野豊作「『三越小僧読本』の知恵」は「深い意味が盛り込まれており、現代のように変化が激しく、かつ商戦が熾烈を極める時代においてこそ、知っておきたい」と言う。