このころ、「昭和の35大事件」の「野田スト血戦記」で取り上げた千葉・野田醤油争議が大詰めを迎えていた。前年9月にストに突入したが、会社側はさまざまな工作で反撃。「小僧のストライキ」の翌月、1928年4月に組合側の全面敗北で終わっている。
さらに重要なのは、岩波店主らが店に乗り込んだとされる3月15日に、昭和の大事件としていまも伝えられる「三・一五事件」が起きている(報道が禁止され、新聞に載ったのは4月10日)こと。全国の共産党員ら1500人以上が一斉に検挙された。
「物語岩波書店百年史」は「実業之世界」の記事を前提に、「刑事たちは、弾圧の理由や必然を岩波にまことしやかに吹き込んだに違いない」と書いている。岩波側の態度には三・一五事件が大きく影響したのは間違いない。というより、岩波側が「三・一五事件」を利用して争議を解決しようとしたのか。
「岩波茂雄伝」も「時あたかも3月15日にいわゆる三・一五事件があり、共産党の大物の手入れがあったりして、主謀者の予期していたかもしれぬ党からの応援のなかったことも、この事件の急速な解決を促した原因であろう」と述べている。
「惜櫟荘主人」は「世間の一部から岩波・巖松堂のストライキは共産党の指導があるとうわさされていたが、実際にはなかったと思う」としているが……。
「われわれは成年店員に引きずられて……」
3月16日、岩波店主は「店員諸君に告ぐ」という文書を出した。「今回突然不祥事が起こりましたにつきましては、私は自己の責任上甚だ遺憾に堪えません」と述べ「丁稚制度の廃止」を筆頭にした給料制度の改正、勤務・手当及び賞与支給制度の改正などを表明した。
「岩波茂雄伝」には「17日、岩波の『私の誠意を認めて私と仕事を共にするの旨を本日午後2時半までに店主または堤支配人のもとまでお申し出なき方は、午後2時半限り、一応この店からお引き取りください』などと店員への辞によって事態はほぼ解決し」と書かれている。
3月18日付東京朝日朝刊には「岩波の小店員 あすから就業」という記事が。その中には、一連のストライキが小店員を中心に起こされたものと指摘していた「実業之世界」の記事を裏付ける記述がある。
「罷業店員中、20名の小店員は17日午後2時、成年店員に対して『われわれ小店員は、成年店員と全く立場を異にするのみならず、われわれは成年店員に引きずられて盲動的に事を共にした傾きがある。この際われわれは諸君と手を切り、全然別個の立場で店主に折衝することになったから、さよう承知ありたい』という旨の声明書を交付し、同午後3時、店主岩波茂雄氏と会見。『丁稚制度を月給制度に改めること、寄宿舎その他の設備を改めること』などの要求書を提出。岩波氏は即時これを容認したので、小店員一同はこぞって19日より仕事に就くことになった」