しかし、バブルが崩壊し、そんな生活にも終わりがやってくる。アルバイト先を突然クビになったのだ。
「ついに親父に『お前、いい加減にしろ!』と怒られて。さすがに頭にきたんでしょうね。僕も意地をはってたんですが、しばらくしてどうにもならなくなって『なんでもやるから会社に入れてくれ』と頭下げたんです」
こうして米田は、実家のサウナ事業を手伝うことに。
「最初に修行に行ったのは『健康ひろば加古川』という施設でした。タオルを畳んで、袋に入れる、いわゆる健康ランドのセットを作るのが一番最初の仕事でしたね。毎日必死で仕事をしていて、最後にお客さんが『お兄ちゃんありがとね』って声をかけてくれるんです。それに鳥肌が立ちまして。『サービス業としてこんな素晴らしい商売はない』というのをすごく感じたんです。これが僕の原点ですね」
突然の中国行き 現地で日本式サウナを作ることに
この健康ひろば加古川を“原点”として、米田はウェルビー各店の要職を任されるようになる。しかし1995年、突如、中国行きを父から命ぜられる。
「突然、親父に呼び出されまして『来月から中国に行け』と。親父の知り合いが中国の国営ホテルの社長に就任して『ホテルにサウナを作りたいからコンサルしてくれ』っていう話だったんです。当時は、中国にサウナが普及してなくて、ホテルのなかに作るだけで、政府からホテルの評価を上げてもらえたんです。多分、中国で日本式・都市型サウナはこれが第1号だったんじゃないかな」
“你好(ニーハオ)”すら言えなかった米田を有無を言わさず中国に送る……。これぞ米田一族の常人離れした帝王学だ。
「当時の中国でサウナに来られる人は超富裕層のお金持ちだけ。だからすごく儲かったんです。その時に祖父が『戦後復興のこれからはレジャーが流行る』と言ってサウナ事業を始めたことを思い出しました。まさに、発展途上の国で経済が回りだすと、レジャーが儲かるっていうのを実感しましたね」
「追い詰められないと本気出ないからな」と言い遺して死んだ父
米田の人生における試練の始まりともいえる中国行き。しかし3年目、急遽父に呼び戻され帰国。そして……さらなる試練が訪れる。
「親父の調子が悪くなって病院に行ったら、お医者さんに『あと半年です』と告げられて、とにかく慌てました。ギター弾いてプラプラして、会社に入って一通りの仕事は経験したけど、そのあと3年半も中国でしょ。そんな俺が会社をどうにかできるわけないし……」