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 のち1996年には、ほぼ同じメンバーで土曜のゴールデンタイムに『めちゃ×2イケてるッ!』が始まったが、大久保が合流するまでには1999年まで待たねばならなかった。この間、OLとして働いていた大久保に対し、光浦は“地獄のような日々”をすごした。本人いわく《その時代、お笑い界は「蹴落とし合いだ」みたいな風潮で、みんなピリピリしてて怖かった。誰も話しかけてくれない。コントのリハも朝から明け方まで続き、胃がいつもシクシクした》日々のなか、帰りのタクシーではいつもフジテレビ社屋の球体展望台を見ながら「きょうもダメだった」と思っていた。それがやがて球体に《この番組が終わるまでに五百回笑いが取れますように》と祈るようになったという(※3)。『めちゃイケ』の共演者とはその後、しだいに打ち解け、互いに言いたいことを言い合えるまでになった。その番組が前身の『とぶくすり』から数えて25年で終わるにあたり、彼女は次のように書いている。

《五百回笑いを取るのに二十五年かかったか。二十五年。まんま私の芸歴。手放しで好きになって、ありがたみを感じ、百パーの気持ちで感謝すると、別れは来るんだよな。もう少し腐ってればよかった》(※3)

©文藝春秋

芸能界で感じた手詰まり「女芸人は逆につらくなっちゃう」

 90年代に思いがけずデビューして以来、光浦は大久保とともに女芸人として新たな道を切り拓いていった。だが、自分たちのつくった手法がほかの芸人にも広まっていくにしたがい、手詰まりも感じるようになる。2011年にオアシズの2人で出席した対談では、《女芸人は性格がいいと思われていたのに、私は女を敵に回して(中略)人を否定して笑いをとるということでは、いちおうフロンティアなんですよ。それを今はあたりまえのようにみんながやっとるもんで、なんだかなぁ……と》と、複雑な心中を打ち明けていた(※5)。

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 そこへ来て“ブス”で笑いをとることも、世の中の変化もあり難しくなってきた。これについて光浦はコラムニストのジェーン・スーとの対談で、自分が笑いの世界でいい思いができたのは、この世界が男社会だからと認めたうえ、《みんなが平等になろう平等になろうってことをやっていったら、まぁ女芸人は逆につらくなっちゃうんじゃない、って私は思ってる》と危惧した(※6)。その一方で、男性のつくる番組での振る舞い方の難しさについて、こんなことも語っている。

《男の人って組織の生き物なのか、やっぱりパスワークみたいなもんがあるもんで、優しいMCの人が名指しでふってくれたら女の人も喋れるけど、そうじゃないと、なかなかパスワークのなかには入れない。(中略)自分でやってて「うわー楽しかったこの番組」っていうのは、やっぱり少人数でたっぷりトークできた時。いっぱいおるなかで、一時間二言しか喋るとこがなくて、二秒ずつ四秒与えられて、で面白いこと言えって……できないんですよ、私》(※6)