本書は、新型コロナウイルス感染拡大下のイタリアで、かつて素粒子物理学を修めた科学者としての顔も持つ作家が綴ったエッセイを編んだ一冊である。
僕自身、同じ世代の異国の著者が「僕らの時代」をどう捉え、どう生きていくかを真剣に模索しながら紡ぐ言葉の数々に、共感するところが少なくなかった。
本書の邦題は、『コロナの時代の僕ら』となっているが、著者はいま僕たちが生きている時代を単に「コロナの時代」とはとらえていない。彼は、新しいウイルスの感染拡大が始まる前から続く時代の延長線上に現在を見ており、この点にこそ僕は大きな共感を覚えた。コロナウイルスの流行が、にわかに人間を新しい時代に引きずり込んだのではなく、むしろ僕たち自身が、新しいウイルスを人間の世界に引きずり込んだと、彼は見ているのだ。
ウイルスは、環境破壊が生んだ「難民」であると著者は語る。地球温暖化に森林破壊、家畜の過密飼育に野生動物の絶滅……。人間がこれまで「平常」と考えてきた生活の営み自体が、ウイルスのこれまでの住処を奪い、結果としてウイルスのヒト細胞への「引っ越し」を余儀なくさせた。
だからこそ、今回の流行について、「どうしても犯人の名を挙げろと言うのならば、すべて僕たちのせいだ」と彼は言う。感染拡大の渦中にあって、ウイルスを敵と見るのではなく、人間の鏡としてこれを直視しようと呼びかけるのだ。
ウイルスの流行は実際、一過性の「災害(disaster)」ではない。アメリカで独自の環境哲学を展開するティモシー・モートンは、著書『Hyperobjects』(未邦訳)のなかで、「disaster」とは字義通りに読めば「落下する星(dis-astron)」のことだと指摘している。かつて宇宙は、閉じた天球だと信じられていた。このとき、星々は定位置に張り付いていた。だから、安定した背景からの星々の一時的な逸脱を示唆する言葉がdisasterだというのだ。
今回のウイルスの感染拡大は、少なくともこの意味でのdisasterではない。問題は、安定した背景からの一時的な逸脱ではなく、背景そのものの動揺だからだ。
「新型ウイルスの流行はひとつの症状にすぎず、本当の感染は地球全体の生態系のレベルで起きている」と著者は指摘している。これまで人間活動の安定した背景として機能してきた生態系は、いまや70億超の人間活動に応答するように、不気味に変容を始めてしまったのである。これこそが、「僕らの時代」なのだ。
ウイルスの流行は、この時代が抱える病の、一つの症候にすぎない。とすれば、著者の語る通り、類似の症状は「今後もますます頻繁に発生する」だろう。
肝心なことは、コロナを一つの症状とする本当の感染がどこで起きているかだ。鏡が映し出す自己の姿に、今度こそは目を背けないでいたい。
Paolo Giordano/1982年イタリア・トリノ生まれ。作家。トリノ大学大学院博士課程修了。2008年『素数たちの孤独』で同国最高峰のストレーガ賞、カンピエッロ文学賞新人賞などを受賞、ベストセラーに。他の著書に『兵士たちの肉体』など。
もりたまさお/1985年東京都生まれ。独立研究者。京都に拠点を置く。著書に『数学する身体』『数学の贈り物』。