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「国母」と慕われた香淳皇后 崩御から20年…宮内庁担当記者が見た最期の2日間

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6月16日、皇居と東京・八王子市にある武蔵陵墓地で香淳皇后の二十年式年祭が行われました。

香淳皇后といっても、知らない世代が増えています。「昭和天皇の后だった」というと歴史的な人という感じがしますが、私にとっては、亡くなられる直前、2000年6月15日から16日の2日間は忘れられない思い出となっています。

昭和天皇と共に歩まれた65年間

香淳皇后は、1903年(明治36年)3月に久邇宮邦彦王の長女として生まれ、良子と書いて「ながこ」と名付けられました。久邇宮というのは戦後に皇籍を離脱した宮家の1つで、お生まれになった当時はもちろん皇族ということになります。

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1920年(大正9年)に昭和天皇との婚約が内定しますが、1924年(大正13年)1月に結婚するまでには、山県有朋が結婚に反対し色弱を訴えた「宮中某重大事件」、関東大震災、摂政を務めていた昭和天皇(当時、皇太子)が狙撃された「虎ノ門事件」が発生しています。

まさに歴史に残る出来事を経験した上で結婚されますが、昭和天皇と香淳皇后が皇太子と皇太子妃という立場であった期間は、わずか3年弱でした。

 

お子様には恵まれ、2男5女が誕生されています。4女の池田厚子さん、ご長男の上皇さま、次男の常陸宮さま、5女の島津貴子さんが、今も元気に過ごされています。

内親王が4人続けて生まれたことで、昭和天皇に側室を薦める声も上がり、香淳皇后もプレッシャーや心労に苦しみましたが、昭和天皇はこれを断ったということです。

そんな中、1933年(昭和8年)12月23日に上皇さまは誕生されました。当時、テレビはなくラジオもまだ普及しておらず、サイレンを2回鳴らして、男子誕生を知らせたということです。

上皇さまを抱く香淳皇后

戦争中、香淳皇后は昭和天皇と共に皇居にとどまり、お文庫と呼ばれる防空施設で暮らし、食糧不足を補うため、皇居内での野菜作りや養鶏も手伝われました。

そして戦後。いわゆる人間宣言を行った昭和天皇の公務に同行し、国民の中に溶け込もうとする昭和天皇を支え続けました。その屈託のない笑顔から、当時は「国母」と慕われました。