午後9時半からの会見は、「状態にお変わりはないが、呼吸は荒い」というものでした。そして、16日の朝を迎えます。
宮内庁への要望で、午前中に会見してくれるよう申し入れをしていました。午前8時からの宮内庁次長の会見で、「午前7時すぎに危篤状態になられた」と発表されました。
15日の夜から皇居の各門に張り付いてくれたカメラマンや記者から、天皇皇后両陛下や皇族方の出入りの報告が次々と上がり、宮内庁内も慌ただしさを増していきます。
こうした状況が続く中、午後4時前から総務課長の会見が行われましたが、「血圧の低下は見られるものの、小康状態を保たれている」という内容でした。
いよいよ長期戦を覚悟し始めました。
この日、テレビは断続的に皇太后さまの病状について宮内庁から生中継をしていたような記憶があります。私たちも小康状態にある皇太后さまについて放送をしていました。
そんな中、午後5時すぎから、皇太后さま崩御のニュースが他社でも流れ始めました。私たちのところにも宮内庁、警察、政治部などから「崩御」の情報が入りました。
ただ、この時は「宮内庁が正式に会見するまで報道はしない」という指示があり、「崩御との情報もあります」といった表現で放送に臨んでいきました。
午後6時30分、宮内庁講堂で宮内庁長官、皇太后宮大夫、侍医による会見が行われました。「皇太后陛下には午後4時46分崩御されました」というものでした。
この会見で、上皇ご夫妻の様子も伝えられました。16日は金曜日で、当時、天皇陛下であった上皇さまにはご執務がありました。皇太后さまの元を離れた際に容体が急変し、上皇さまは走って吹上大宮御所に駆けつけ、皇太后さまの手を握りしめられたということでした。本当にギリギリで最後の瞬間に間に合われたということです。
私が驚いたのは、この2日間の治療の詳細の話でした。
呼吸器を付けた以外、点滴もせず蘇生術も施されなかったという、要するに延命措置は全く行われなかったこと。点滴や注射は針を刺す苦痛が伴うため、苦しみのない治療をしたということでした。