文春オンライン

『ペスト大流行』著者が語る、最期に家族も会えない「志村けんさんの死」と「非常時の看取り」

科学史家・村上陽一郎さんインタビュー #1

note

「死」をいかに身近に感じ得るかという点で、準備が少なすぎる

――ところで1983年に刊行された『ペスト大流行』は、大学院時代の論文がきっかけだったそうですね。

村上 生物進化論、ダーウィニズムを日本社会がどう受け容れたかが修士論文のテーマだったんですが、その資料を集めているときに珍しい文献に出会ったんですよ。それが14世紀の黒死病についての資料。読み始めたら面白くって止まらなくなった。そもそもの、直接的なきっかけはこれです。

 もう一つは、間接的なきっかけ。黒死病がもたらした「理不尽な死と、その時代を生きた人々」に関心を持ったのはおそらく、私の家族の死、個人的な体験が影響していると思うんです。医者だった父は私が高校3年の時、53歳で亡くなったのですが、やはり早い死だという思いはあった。そして、その頃から私は4年くらい肺結核をやったんです。ひと昔前だったら死病と言われた病気です。ちょうど抗生物質、ストレプトマイシンが少しずつ使えるようになって、私の命は救われたと思う。今、84歳になりかけているんですが、病に罹っているときには自分がこんなに長生きするとは夢にも思っていませんでしたからね。それが、私自身にとって身近なものだった「死」と人間の関係を歴史的に研究しようと思う遠因だったと思うんです。今だから言える、後知恵のようなことなのかもしれませんが。

ADVERTISEMENT

 

――その視点からすると、『ペスト大流行』は中世に現在を重ね合わせて「過去の教訓」を探し求める以上の読み方ができるような気がしました。あとがきにはこうあります。〈今後、われわれの死は、ますます「社会化」され「制度化」されていく傾向が強く現われている。そこでは「生」と「死」との意味にかなり大きな変化が生じてくる可能性がある〉。

村上 現代において「死」は、あってはならないもの、どこかに棚上げしておきたいものになってきているでしょう。我々の社会は、「死」をいかに身近に感じ得るかという点で、準備が少なすぎるのではないか。この本を書いてから四半世紀以上の時間が経っていますが、その傾向はますます進んでいます。

死は身近だが、遠ざけておきたいという「矛盾」

――『死ねない時代の哲学』では、社会化され制度化された「死」について、安楽死問題なども俎上に乗せながら、論を展開されていました。

『死ねない時代の哲学』

村上 私たちの社会は超高齢社会を迎えたわけです。私も「超高齢」のほうの人間になってしまいましたが、こうした超高齢者はいずれ社会の四分の一を占めるようになるそうですね。つまり、自然に考えれば死はますます私たちにとって身近なものになりつつある、自分ではなくても他人の死が身近にあるということでもありますから。ところが死は身近だが、遠ざけておきたい。こうした乖離、矛盾が表に生じているのが今という時代なんです。