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終戦、75年目の夏

瀬戸内海の「毒ガス島」で廃墟を巡る…火炎放射器とウサギが語りかける“歴史の傷跡”

瀬戸内海の「毒ガス島」で廃墟を巡る…火炎放射器とウサギが語りかける“歴史の傷跡”

“地図から消された島”と戦争の記憶

2020/08/14
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島内に残る砲台跡では“絶景”も

 発電所跡をひと通り見学しおえた私は、次の戦跡である砲台跡を訪れた。

 島は南北にやや長く、丘の上には南部・中部・北部にそれぞれ1箇所ずつ砲台跡が存在する。フェリー乗り場は島の南端にあるため、私は南部砲台跡から北上し、3箇所の砲台跡を歩いた。いずれも大砲が設置されていた跡のほか、地下兵舎跡も現存している。

南部砲台跡
中部砲台跡

 大砲は、南部砲台に4門、中部砲台に4門、北部砲台に8門の計16門が置かれていた。砲台跡は海を見下ろせる場所にあるため、見晴らしがとてもいい。瀬戸内に浮かぶ島々と砲台跡。これを見るだけでも、大久野島に足を運ぶ価値は十分にあるだろう。

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中部砲台跡に残る兵舎跡
南部砲台跡からの眺め

毒ガス貯蔵庫はいま……

 さて、この島の異名の一つでもある毒ガスに関する遺構は、島の西部に広く点在している。遺構の多くは、かつて毒ガスを保管していた貯蔵庫跡だ。規模が最も大きい長浦毒ガス貯蔵庫跡に足を運んでみると、千羽鶴が捧げられていた。

 大久野島では、1929年から第二次世界大戦末期の1945年頃までの間に、最大で年間1200トン、合計6600トンもの毒ガスを製造していた。皮膚をただれさせる“びらん剤”や“催涙剤”、さらには致死性の“血液剤”など、大久野島で製造された毒ガスは多岐にわたった。

長浦毒ガス貯蔵庫跡。壁には火炎放射器で焼かれた跡が残っている
千羽鶴

 島には戦後も3000トンを超える毒ガスが貯蔵されていたが、GHQにより処分された。その一部は貯蔵庫ごと火炎放射器で燃やされたが、今でも長浦毒ガス貯蔵庫跡には、火炎放射器で焼かれた際の焦げ跡が生々しく残っている。