1994年作品(157分)/ディメンション/4800円(税抜)/レンタルあり

 先日、渋谷で行われたドキュメント映画『ゆきゆきて、神軍』の公開三十周年上映で、原一男監督とトークイベントをさせていただいた。

 作品自体、時を経ても色あせることのない強烈な内容であったが、その後でうかがった監督の製作秘話がさらに強烈だった。具体的なことはここでは述べないが、実は作中での対象人物の行動はカメラを意識したフィクショナルなものであったというのだ。

「事実」として目の前に提示されていた映像の背後には、実は重層的な虚構性が隠されていた――。そのことを知った時の筆者の衝撃たるや。だがこの感覚には、憶えがあった。それは筆者の高校時代、『全身小説家』で初めて原監督作品に触れた時のものだ。

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『ゆきゆきて~』の作中では対象の虚構性は徹底的にカットされており、その裏の「真実」は上映後のトークでのみ明かされた。が、今回取り上げる『全身~』では、作中において虚構性が暴かれる。

 本作では、癌に冒された作家・井上光晴の晩年の姿が、周囲の人間の証言と共に映し出されていく。冒頭から井上は、カメラの前で自らの過去を語る。伊万里で焼き物を焼いていた父親は中国に渡り、旅順で母と出会って自分が生まれた。放浪癖のある父はすぐに消息を絶ち、母は再婚。居場所の無くなった井上は佐世保近くの炭鉱で祖母と貧しく暮らす。さらに、作家活動の原風景となる炭鉱の爆発事故と、遊郭に売られた在日朝鮮人の少女との初恋。流暢に語られる井上の話に魅せられ、こうした過去が部落差別を描いた『地の群れ』などの小説に帰結するのか――と、ドラマチックに受け止めた。

 だが後半、驚きの展開が待っていた。故郷の人間たちの証言により次々と明らかになる「事実」はことごとく、井上の語る過去を覆すものであったのだ。出身地、父親の消息、貧しい生活などの全てはデタラメ。少女も遊郭に売られていなかった。

 観終えて、『全身小説家』という奇妙なタイトルの意味を理解することができた。井上は自らの人生すら、小説のような虚構として劇的に脚色してしまっていたのである。

 そして原監督は、一切の抒情性を排した残酷ともいえる乾いたタッチの演出で井上を突き放し、その過去を淡々と提示していった。そのことで井上の朗朗とした口ぶりとの温度差が際立ち、その虚構性が浮き彫りになる。虚構の世界でしか生きられない人間の業を、そこに感じた。

 筆者には、その業がとても愛しく思えた。それが虚構の世界に生きる人間に興味を抱く契機となり、現在の仕事に至ることになっていく。