自分を責める
わたしは、とにかく自分を責めていた。
「あの人が心ないことをいったのは、わたしの仕事の能力が低かったからだ」
「自分だけ休んで、みんなに迷惑かけて、わたしは本当にダメだ」
毎日、毎日、寝ても覚めても、そんなことを考えていた。
よろよろとした足どりで、コンビニへご飯を買いに行ったときなんて。コンビニの店員さんがお弁当におはしを入れ忘れていただけで。
「ああ、わたしの態度が気に入らないから、わざとおはしをくれなかったんだ」
家に帰って、くやしくて、情けなくて、泣きつかれて眠る日もあった。店員さんが気の毒なほど被害妄想もはなはだしいが、本気でそう思っていた。
それからわたしは、ひまさえあれば、いかに自分がダメな人間かを考えはじめた。そうすることで、落ち込んでいる自分を正当化したかったのかもしれない。
昔から、すれ違う人によく舌打ちされる。あまりにも舌打ちされるもんだから「大阪の人は怖いなあ」「東京の人は冷たいなあ」「名古屋の人はせっかちだなあ」と、偏見にまみれた地方性のせいにしていた。おろかである。
これね、実は、わたしの歩き方がおかしかったの。
前を見ているつもりが、なぜだか向かってくる人に気づけず、衝突寸前。
まっすぐ歩いてるつもりが、知らないうちに、ななめに歩いてる。
注意力が散漫で、無意識に遠くの看板を読んだり、走る車をながめたりしている。
これ全部、同僚から「そんな歩き方してるから、ぶつかるんだぞ」とあきれられて、はじめて自分のせいだと知り、愕然としたわけで。
わたしの言葉は情報過多
基本的にわたしの発する言葉は情報過多であることにも気づいた。
興味の移り変わりの激しさが3歳児のそれなので、対話でもプレゼンでも、話している最中に、思ったことや目についたことを、突拍子もなく話してしまう。
営業で30代女性をターゲットにしたサービスの定義の話をはじめたはずが、いつの間にか、カタツムリはコンクリートを食べるという話に変わっていたりする。
話したいことが、売れる前の五木ひろしの名前並にコロコロ変わる。
自分では止められなかった。そもそも自覚がなかった。
空気のおかしさを感じ、ハッとしてしゃべるのを止めたら、周りが苦笑いしている。会社で営業をしたころは、同席していた上司によく「新しい案件のヒアリングなのに、お前ばっかり話してたな」とあきれられた。