みようみまねで、なんとかやってきた良太の強さ
良太は小学生のころ、わたしよりもまっすぐ歩けなかった。わたし以上に注意力散漫で、すぐに道路に飛び出すから、ずっとパーカーを着せられていた。母やわたしが、いつでもフードを引っぱって、無理やりにでも飛び出すのを防ぐためだった。
言葉も慣習もわからない。思っていることをうまく伝えられない。
そんな良太を、わたしは、助けてあげなければいけないと、きっと心のどこかで思っていた。
でも、良太は良太なりに、24年間を生きてきて、いろんな「みようみまね」を覚えていたのだ。
だれに笑われても、あわれまれても、まったく気にせず。
もぐもぐ食べて、すやすや眠り、げらげら笑い、大人になっていた。
そして、わたしを助けてくれた。
だれにも、なにも、教えてもらっていなかったはずなのに。
もしかして、助けてあげなければいけないどころか、良太はわたしよりたくましい存在かもしれないと思った。
たとえば、いまこの世界に、空から宇宙人が襲来してきたとして。
言葉も文化もわからない宇宙人に、人類はパニックになるだろう。
争いか差別かが、きっと起こるはずだ。受け入れることは、はねのけることよりはるかにむずかしい。
でも、きっと、人類でだれよりもはやく彼らと共存できるのは、良太なんじゃないか。
だって、良太にとっては、当たり前だったから。
なにもわからなくても、みようみまねで、なんとかしてきたから。
なんとかする、という自覚すらないまま、限りなく自由に、生きてきたから。
そういう、世界規模で強い人間が、身内にいたってことに、感動をかくせなかった。
どん底まで落ちたら、世界規模で輝いた
ずいぶん話が飛躍したので、戻そう。
良太の強さを目の当たりにして、わたしは目が覚めた。人と同じようにできない自分を、迷惑をかけている自分を、恥ずかしく思ったり、情けなく思ったりしていたのは、だれでもない、自分だった。
他人じゃない。全部を自分のせいだと決めつけて、勝手に落ち込んでいたのも、自分だった。でも良太を見てみろ。当たり前のことをうまくやれなくたって、彼の人生はうまくいってる。楽しくやれてる。楽しくやらない方が、損なのだ。両替するために、コーラだって飲んでいいのだ。
とんでもなく楽しい旅行を終えたとき。わたしはなんとなく「ああ、もう大丈夫かも」と思った。その直感はあたっていて、少しずつ、少しずつ、大丈夫になった。
それからしばらくして、わたしは会社へと復帰した。良太のみようみまねで、くよくよ悩むことをやめてみた。人の目を気にすることをやめてみた。
あのとき、良太が買ってきたコーラは、一口もわたしにくれなかったけど。
もしかして両替っていうより、自分がただ飲みたかっただけじゃないの、ってちょっとだけ思ったけど。
宇宙人の襲来を心のどこかで願いながら、旅を終えたわたしは、今日も元気に、みようみまねで生きている。