テイラー博士とお母さん
さて、言語の訓練は、最初は「顔」や「料理」のような漢字を覚えるところから始まり、「運転する」とか「水を飲む」のような二語の文章に進んでいきました。足し算や引き算も学びはじめました。
ある時、言語の先生が「お母さんの話を聞かないけど?」と言いました。
お母さん! 私が病気をしてからこだまのように連呼していた「お母さん」。先生に聞かれて、咄嗟に思い出したのは、自分の母親ではなく、ある本の中に登場するお母さんでした。
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』(新潮文庫)の著者は、ハーバード大学で脳神経科学を研究するジル・ボルト・テイラー博士。女性脳科学者が自分が脳卒中になった経験を書いてベストセラーになりました。日本語訳は2009年2月に発売され、私は10月に読みましたが、11月には自分もくも膜下出血になりました。読みたてほやほやで同じ病気になったということです。
脳卒中を起こして入院したテイラー博士は、母親が駆けつけてくると知らされたとき、「母親とはなにか?」がわからなかったそうです。「お母さん、お母さん……」と繰り返し、頭の中のファイルを見つけて開き、ようやく「大切な人であるお母さんがくる!」とわかって興奮したといいます。そして飛行機に乗って飛んできたお母さんは、テイラー博士の目を見て、シーツを持ち上げ、ベッドに潜り込んでギュッと抱きしめたのです。
おお、感動する話ですね。博士は私と同じく左脳が壊れ、失語症になったのですが、お母さんと一緒にジグソーパズルをして「色」がわかったり、絵本を読んで「文字」の組み合わせが単語になることを理解しました。お母さんという最高の教師がいるおかげで、みるみる回復したそうです。