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名前が分からない、喋れるのは「お母さん」「わかんない」だけ…脳梗塞になった清水ちなみが明かす失語症の日々

「OL委員会」の人気コラムニストが忽然と姿を消した理由 #3

2020/10/18

 最初に覚えたのは数字です。1から10まで覚えるのは本当に大変でした。その後、自分の名前と住所を覚えました——。(第3回/第1回第2回より続く)

◆ ◆ ◆

 前回、10年ぶりに原稿を書いてみて、やはりブランクが大きいな、と思いました。

 まずパソコンのキーボードを打つのが遅くなった。昔はとても速くて、家にやってきたテレビのカメラマンが「うそだ、適当に打ってるんですよね?」とびっくりしていたほどだったのに。

1988(昭和63)年。OLを辞め、執筆生活に入った頃

予約の電話がかけられない、右の眉毛がうまく描けない

 やっとの思いで原稿を書き上げると、今度は誌面に載せる写真を撮影させてほしいと編集部から言われてパニックに。まったくの想定外でした。

 まずは美容院です。まだ自分では予約の電話がかけられないので、旦那に予約をしてもらって行きました。

 ふだんはすっぴんの私ですが、久しぶりにメイクにも挑戦。顔の左半分はなんとかなったけど、右手の感覚が鈍いので、右の眉毛がうまく描けない。困った私はデパートの化粧品売り場のお姉さんにお願いしましたが、コロナウイルスでメイクを手伝えないと言われてしまい、しかたがないので自分でなんとかやりました。

 脳梗塞で左脳の四分の一を失った私は、「できること」と「できないこと」がくっきりと分かれるようになりました。

 昔のように、何もかも自分でできるわけではないのです。

 でも、言葉に関してはずいぶん戻ってきました。

 今回は「私が言葉をどう取り戻していったのか?」について書いてみようと思います。

最新話は『週刊文春WOMAN vol.7 (2020秋号) 』に掲載

喋れる言葉は「お母さん」と「わかんない」だけ

 11年前、46歳の時にくも膜下出血で倒れた私は、手術は成功したものの脳梗塞が起こり、失語症になりました。

 喋れる言葉は「お母さん」と「わかんない」の2語だけなので、旦那とはこんな調子で喋っていました。

「お母さんはわかんないからお母さんでお母さんなのよ」

 手術後、ICU(集中治療室)から一般病棟に移ったものの、ベッドに寝たきりだった私は、流動食さえ食べられず、液体の袋から栄養を摂っていました。