大阪サウナ、誕生の瞬間
ニュージャパンは、1952年のセンチュリープラザのオープン当初から関西で初めて「スチームバス」を設置、人気を博す。その後も日本の経済成長とともに事業を拡大。梅田、阿倍野にも店舗を展開する大型サウナグループへと成長していった。
経営母体のニュージャパン観光は戦後の関西レジャー産業界では有名な、飛ぶ鳥を落とす勢いの会社だった。その代表を務めた中野幸夫氏はその指導力とカリスマ性でサウナの発展と社会的地位向上に尽力。1998年にはフィンランド大統領から感謝状も贈られたという人物である。
そんな人物を父に持ち、現在ニュージャパン梅田店の会長でサウナ・スパ協会の会長でもあるのが今回の主人公、中野憲一氏。関西サウナ史と共に歩んだ彼の人生もまた、波乱万蒸だった。
「創業者の祖父はもともとは富田林(とんだばやし・大阪の南河内地域)の百姓。新世界に出て来て、昭和5年には日の丸という名前で、ちょうど通天閣の下でカフェをやってたんですよ。カフエというと当時は女給さんがいるところですね。今でいうたらホステスさんね。まぁ、キャバレーですわ。私もよく知らないんですけど、当時生まれてないから(笑)。
それが戦時中に火災で燃えて、祖父は戦後の昭和22年に難波でモンテカルロというキャバレーを開業するんです。その後すぐ父が日の丸に入社して。さらに道頓堀の映画館の跡を買って、キャバレーを始めたんですよ。その時の名前が「令嬢プール」。当時女の子が300人くらい、令嬢があふれるようにいたから(笑)。
戦後やから女の人の働く場所もあまりなかった時代で、その受け皿的なとこもありましたね。昭和28年に祖父が亡くなって、父が代表取締役に就任しました」
「令嬢プール」で培ったサービスが「トルコセンター」で開花
「昭和30年にね、父が『令嬢プール』の隣を買い足して、トルコセンターというのを開業したんです。トルコって言っても、箱蒸し風呂ですよ。箱蒸しを勝手にトルコ風呂と名付けていたんです。箱状の蒸し器の中に寝そべって頭だけ外に出ている、あれです。
親父も色々とお金で苦労していたのですが、朝鮮特需の影響もあり好景気でキャバレーはうまくいってたんです。その間に別の新規事業をということで、東京へ研究に行ってたんですよね。それであちこち歩きまわって疲れている時に、当時銀座にあった東京温泉へ入ったんですよ。それで『あっ!これや』ということで始めたのが最初です」