人見知り次男坊がサウナ協会の会長に
革新的な試みで戦後大阪のサウナ文化をけん引してきたニュージャパンだが、景気の波、時代の移り変わり、自然災害などにもまれ、常に変化を余儀なくされてきた。
現在、会長職にある中野は気が付いたらサウナのオーナーになっていたという。
「最初は東京にニュージャパン観光系列の別会社があって、そこへ行っとったんです。青山二丁目の絵画館の前の通りの突き当りのところの向かい側でホテルをやるつもりだったんですけども、第一次オイルショックがきて、建築費の高騰でそれがボツになって。
そこから大阪に戻って最初は系列のキャバレーにおって、それから割烹日本というレストランに修行に行って。ちなみに当時のキャバレーの名前は『令嬢プール』から『ナイトガーデン・ニュージャパン』になってました(笑)。キャバレーはもう1軒あって、そこは『美しの園(うるわしのその)』という名前やったね(笑)。
実は当時サウナを担当してたのは兄と弟で、彼らがサウナ協会にも入ってたんですよ。ところがある日突然、『お前、会長やれ』と言われて。わけわからんと協会に入って、今では会長に(笑)。まぁ一族でサウナをやってましたけど、兄も弟も私も性格が全然違うんですよ。ふたりとも理屈っぽくて、ものすごく話好き。私はどっちかいうたら人と会うのが苦手。それがどういうわけか私がやれと言われて。なんか協会の中で会長決めにくかったんでしょうね(笑)」
サウナは嫌いではない、でも決して好きなわけでもない
生まれた時からサウナ経営の家系に生まれ、“好きとか嫌い”というよりも、ただそこにあったサウナ。それ故、自身が社長になったときには苦労があったという。
「実はサウナは年に10回も入ったらいいとこですよ。サウナ好きですよ、もちろん。でも客としてこの店に入ったらね、アラが見えて、疲れがとれんのですよ。リラックスしてられない。よそさんの店だったらいいけれども。前はもうちょっと入っていたと思います。ただここ数年はそんな感じですね。
私がニュージャパンの社長になったのはね、43の時です。その時、仕事のストレスから来る十二指腸潰瘍で入院している最中だった(笑)。せやから就任あいさつみたいなのは何もしてない(笑)。会社ですから色々ありましてね。本当に大変だったんです。まあ僕としては見ているだけだったんですが。社長になってからは、働きやすい環境にすれば社員が能力を出しやすくなって会社がようなるんじゃないかと思ってやってきました」