同年10月26日の控訴審第1回公判では「一審と打って變(変)わり 蘭童全く兜(かぶと)を脱ぐ」(10月27日付東朝夕刊見出し)。「一審当時はドモリながら勇敢に犯意を否認し続けたが、今日はすっかり憔悴(しょうすい)し、裁判長の尋問に低声で頭をペコペコ下げながら『私は悪いことをしたと思います。一審の時から静かに考えてみました』と過去一切の非行を認め」という態度だった。
蘭童、ついに泣き出す
同じ日付の読売は「蘭童遂に 泣き出す」の見出し。「一審通り懲役十月を求刑すると、しょんぼり立っていた蘭堂は肩をふるわして泣き出した」とした。この日の夕方、8カ月ぶりに保釈されると「刑務所では宗教の本を多く読みました。尺八? それは決して許されないことです」と語ったと「『竹は持たぬ』と 保釈の蘭童」の見出しの10月27日付東朝朝刊は書いている。
同年10月31日の判決も「蘭童の態度がまだ全く悔悟したものでなく」という理由で一審と同じ懲役10月の実刑。蘭童はまたも上告した。
ところが11月27日付東朝夕刊には「蘭童君下獄」のベタ(一段)記事が。「愛欲行で知られた例の尺八師範、蘭童こと福田幸彦(33)は一、二審とも詐欺罪で懲役10月(未決100日通算)の実刑を言い渡され上告中だったが、このほど服罪を決意して上告を取り下げ、明27日、いよいよ市ケ谷刑務所へ下獄することになった。華やかだった蘭童も過去の罪責の清算をすべく、約7カ月の囚人生活をせねばならなくなったわけである」。結婚詐欺をめぐる騒ぎはこれで一応幕を下ろした。
「信じていた」と女2人を非難
蘭童が服役していた宇都宮刑務所を仮出所したのは1935年5月16日。「話」同年7月号には蘭童の「私は川崎弘子と結婚するか―謹慎者の立場から」という手記が掲載されている。
「私は弘子を知るまでには、ご承知のようにすさみきった生活を続けていました。いろいろな女とのみだらな関係を、自ら何とか断ち切らねばならぬと思いながら、持ち前のぐうたらさと弱気から、ずるずると後腐れを残していたのです。私は弘子を知り、そのあえかな美しさ、女優に珍しい純情と真面目さに打たれました。それでいて、父親を早く失って少女時代から苦労を重ねてきただけに、心の底はしっかりしているのです」とほめたたえた。
過去の女性関係も彼女に告白したが「よく打ち明けてくれた」と言われたという。梶原富士子と婚約した事実はなく、「ふぢ子(文中でこう表記している)は意識的かどうかは知りませぬが、警察での取り調べでもうその陳述を、法廷でも明らかに偽証をしたのです」と断言。
控訴審判決後、上告して保釈された後、自殺を考えたが、弘子に励まされて思い直したとした。
同年9月初めに出た雑誌「婦人公論」10月号では、今度は川崎弘子が「福田蘭童さんと結婚する理由」という手記を載せた。そこで彼女は「モダン日本」の手記よりはるかに強く、終始蘭童を擁護。被害者とされた女性2人の態度を非難している。