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 蘭童が許婚者となったのは3年前。「清い交際を続けてまいりました」。そこへ「例の事件ができてしまいましたが、私はそんな人ではないはずと信じていました」。「真相を確かむべく八方狂奔しましたところ、そこに異様な真相があることを知りました」。

 自信を持って公判を迎えたが「福田さんは誤解を解きかけた途中で意志を曲げ、自ら悪く認めて罪の人となってしまったのです。それを世の人は事実としてますます悪化した感情で福田さんを迎えました」と世間の評価に反発。「偽ったまま逃げ惑う女性たちを思うとき、何故に清算しないのだろうとじれったい気持ちになってまいります」と2人の女性に恨みの言葉を投げ掛けた。

 そしてこう締めくくっている。「一日一日と美しい姿に立ち返っていくとき、許婚者として、家庭生活へ導き傷心の福田さんをいたわってやるべきが道ではないでしょうか」。

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「更生への努力と純情が結び付いたハッピーエンド」

 10月20日付東朝朝刊には「舞台と銀幕 結婚二題 蘭童君と弘子は来月五日」という記事が。歌舞伎俳優の結婚と併せた話題で「なんだかだと波乱重畳、来月5日、大森・松浅本店で菊池寛、城戸四郎両氏夫妻の媒酌でいよいよ挙式することになった。蘭童君の更生への努力と純情スター弘子さんの純情とがしっくり結び付いてのハッピーエンドである」と書いている。この時点までに蘭童は正式に前の妻と離婚していた。

菊池寛 ©文藝春秋

「日本映画俳優全集女優編」は「関係者は一様にこの恋を押さえようと躍起になった。だが、この恋は周囲の思惑とは裏腹に燃え上がり、彼女は持ち前のシンの強さで反対を押し切って初恋を貫き」結婚に持ち込んだと記述。

「披露宴の席上、菊池は彼女の純情をたたえ『もしこの結婚が失敗したら、全て福田君の責任である。福田君は川崎さんの純情を裏切ってはいけない』といった意味のスピーチをし、城戸とともに『彼女を絶対不幸にしない』と福田に堅く誓わせた話は有名である」と書いている。

 蘭童はさまざまなところで、菊池とは親しい遊び仲間で、マージャンも自分が教えたと語っている。それに対して菊池は「文藝春秋」の人気コラム「話の屑籠」の1934年5月号では、マージャン賭博で自分も検挙されたことを「つまらない事件を起こして甚だ不愉快な思いをした」と書いたうえで次のように憤慨している。

「自分が福田某と会ったことがあるのは昭和6(1931)年ごろである。彼は直木(三十五)の知人として3、4回会ったことがある。爾来2、3年間同席したことがない。自分が2、3年来会ったことのない人間の口述で、時効わずかに6カ月の微罪の嫌疑で自分を取り調べるなど、その苛烈なやり方が古今東西いずれの地にあるだろうか」

 蘭童の供述から自分が検挙されたと思い、ことさら素っ気ない反応になったようだ。

 ところが同年12月号の同じコラムはかなりニュアンスが違う。