「男女間の問題は実にデリケートなもので、片言をもって容易に決しがたいものだ。福田君の問題などもそうだと思う。女に貢がしてノホンと放っていた古来の色男の罪を一身に引き受けたようなところがあり、かわいそうなところもある。天才洋画家の遺児たる同君に対して、社会が米田博士(東朝の論説委員長を務めた米田実か?)のような目で見てくれれば、福田君も喜んで新生活に入れると思う」
菊池は川崎弘子とは、彼女が彼の小説の映画化作品に主演するなどの縁があった。城戸らからの依頼もあっただろう。2人と接触したことで事情を理解したのか。
「もう別れましたか?」向けられる周囲の期待に…
結婚から半年ほどたつと、撮影所にいる弘子には「もう別れましたか?」と新聞・雑誌の記者からの電話があったという。周囲の“期待”にもかかわらず夫婦仲は円満だった。
弘子は1936年に主演した「人妻椿」が空前の大ヒットを記録したが、その後、自ら活動を狭めていった。蘭童は戦争を挟んで約10年間、活動を自粛。2人は戦時中、神奈川県・湯河原に移住し、蘭童は趣味の釣りと狩猟に熱を入れた。
敗戦後、蘭童は尺八や作曲の仕事を再開。「夫婦生活」1951年7月号の「昔かわらぬ美男美女 尺八の福田蘭童 川崎弘子夫妻の睦まじさ」という記事は、記者が自宅を訪問して話を聞いている。かつてのスキャンダルには触れず、琴と尺八を合奏する2人をこう書いている。「琴瑟相和す。これが福田蘭童、川崎弘子の夫婦生活にぴったりしている」
「ヒャラーリヒャラリコ」で爆発的人気
1953年、NHK第一放送(当時)で子ども向けの番組として北村寿夫原作の「新諸国物語 笛吹童子」が放送された。「キネマ旬報増刊 日本映画作品全集」は「『ヒャラーリヒャラリコ…』という主題歌がまず耳になじみやすかったことから、ラジオの前に子どもたちをくぎ付けにするほどの人気を集めていた」と書いている。その主題歌が蘭童の作曲だった。
爆発的な反応に目をつけた東映が2本立て興行の導入を狙った40~50分の中編「東映娯楽版」として映画化。1954年の「ゴールデンウイーク」に公開した。主演はその後大スターとなる中村錦之助(のち萬屋錦之介)。「このお子さま用活劇映画が約5億円の興行収入をあげる、予想もしない大ヒットとなり、東映黄金時代を築く礎となったのである」(同書)。主題歌のメロディーは全国の子どもたちに口ずさまれて広がり、福田蘭童の名前は一気に高まった。