蘭童は“女の敵”だったのか
戦後しばらくたった「文藝春秋」1952年4月号に「蘭童事件の告白―わが戀(恋)愛年代記―」という蘭童の長い手記が載っている。事件から18年たっても、蘭童は自己弁護に徹していた。
マージャン賭博も事情が分からないまま「刑事の言うままになって始末書を書いた」と記述。梶原富士子と佐久間としと思われる2人の女性との交流についても、ほとんど相手に責任があるように書いている。
公判で調書を認めたのは元検事の弁護人から、その方が得策だと入れ知恵されたからだと弁解。上告を取り下げたのは、川崎弘子から断ち切った黒髪を贈られ「もがけばもがくほど、泥沼に沈んでいく自分、藁(わら)があれば縋(すが)ろうとする依頼心、それは自分の姿であり醜態ではないか」「一切は贖罪をしてからのことだ」と思い至ったからだとした。文章の最後には、恩人として、菊池寛への感謝の言葉をつづっている。
全体的にとてもそのまま受け入れられる内容ではない。まだ少なくとも部分的にはウソを言って自分を美化しているという印象は否めない。
蘭童が書いたり語ったりしていることにはあいまいな点が多い。彼の弁解や彼を擁護する川崎弘子の言葉を頭から信用はできない。菊池寛の言うように、男女の関係は一様に語れないにしても、彼の行為は“女性の敵”と言われても仕方がないところがある。
一方で、女性たちの言っていること全てを信用して、彼の弁がでっち上げだと切り捨てるのにもためらいがある。真実はその中間にあるのだろう。いまも複数の女性が被害者となった結婚詐欺事件はあるが、これほど有名人が絡んでエピソードに不足しない事件は珍しい。いま起きていたら、週刊誌やワイドショーの格好のネタになり、もっと派手な大騒ぎになるだろう。
いずれにしても、人気者はおだて、不祥事を起こした人間には手のひらを返したように厳しい、興味本位の報道はいまも昔も変わらない。トラブル続きの前半生がうそのように、蘭童の後半生は平穏で円満。「酸いも甘いもかみ分けた粋人」として存在が世の中に受け入れられた。
彼の若いころの放埓な女性遍歴は、心理学者なら、幼くして別れた母を無意識に求める行動と分析するかもしれない。ということは、あるいは彼は川崎弘子に母を見たのだろうか。
【参考文献】
▽下川耿史「昭和性相史 戦前・戦中篇」 伝統と現代社 1981年
▽絵・青木繁 文・福田蘭童 石橋エータロー「画家の後裔」 講談社文庫 1979年
▽竹藤寛「青木繁・坂本繁二郎とその友」 平凡社 1991年
▽「キネマ旬報増刊 日本映画俳優全集女優編」 キネマ旬報社 1980年
▽「キネマ旬報増刊 日本映画作品全集」 キネマ旬報社 1973年