「私のために一生を台なしにした可憐な女優だった」
以後の蘭童は趣味が高じての釣りや料理、旅行、文化人との交流など、幅広い分野でのエッセーを雑誌に連載。単行本を出すなどして活躍を続けた。弘子は戦後も時折、映画に出演していたが、1957年に引退した。
1957年3月発行「週刊読売」の「ご主人採点」というグラビア記事には、「石渡静子(川崎弘子)さん(45)」の名前で登場。蘭童を「だらしのない方」「仕事がうまくいかないとガミガミとうるさい」と言いつつ「家のことは何にもしませんけど、お料理だけは腕がいいんですよ。その代わり、後片付けがとても大変。さあ、100点はとてもあげられませんね。おまけして80点」と語っている。
対して蘭童は弘子のことを「女房になる条件として、映画には一切出ないという約束だった。芸術?と家庭とは両立しないというのではなく、人さまに顔を見られたくない、自分一人で魚屋でも八百屋でも行ける身分になりたいという願いであった」「元来、彼女は人さまの前に出るのが嫌いなタチらしく、映画界を去っても寂しそうではなかった。むしろ満足している様子だった」(「旅」1964年11月号「女房風土記『弘法さまの申し子』」)と述べている。
1976年6月3日、元映画俳優・川崎弘子、本名・石渡シズ子は肝硬変のため64歳で死去。同年6月の「サンデー毎日」「合掌」欄の「亡き妻を憶う」という文章で蘭童は「8年近くも入院加療していた」とし、「貞淑な妻だった。私のために一生を台なしにした可憐な女優でもあった。すまぬ」と書いた。
その蘭童も約4カ月後の同年10月8日、脳卒中で死亡した。71歳。「本名、石渡幸彦」とあった。弘子の家の籍に入っていた。同日付東朝夕刊の死亡記事の末尾にはこう書かれていた。「大恋愛の末、結ばれた妻シヅさん(女優当時の芸名・川崎弘子)を今年6月に亡くしたばかりだった」。
同月の「週刊新潮」は「天才的蕩児『福田蘭童』の棺を蓋ってからの『天才論』」という記事を掲載。元クレージーキャッツのメンバー石橋エータローが、釣り、酒、ギャンブルに明け暮れた蘭童の生活を語っている。石橋は蘭童と最初の妻との間の子ども。石橋は母の実家で育ち、「父親は死んだ」と聞かされていた。
「ところが17の時『実は、おまえの親父は福田蘭童だ』と初めて聞かされて、そのころ親父が住んでいた湯河原まで一人で会いに行ったんです。ま、親父とはそれ以来のつきあいでしてねえ。何か親子というより友達みたいだったなあ」
蘭童は自分が釣った魚を調理したことから料理にも手を出し、揚げ句、東京・渋谷に魚料理の店を出すようになる。石橋はクレージーキャッツのピアノ担当をやめた後、その店を引き継いだ。