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「今ここで話すことはない!」 オウム真理教・麻原がみせた揺れ動く“本心”

『私が見た21の死刑判決』より#3

2020/11/07

source : 文春新書

genre : ニュース, 社会, 読書

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刻々と迫る死刑判決

 オウム真理教の教祖にして、教団の引き起こした事件の首謀者。岡崎一明をはじめ、この組織からは当人を含めて13人が死刑判決を受けている。

 本名・松本智津夫。彼が東京地方裁判所で死刑判決を受けたのは、2004年2月27日のことだった。

 その日の朝から傍聴券を求めて、東京地裁の一区画東側にあたる日比谷公園に4658人の傍聴希望者が集まっていた。公園は春にまだ遠かったが、天気のよかったことだけはよく覚えている。

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 いつもの第104号法廷。一般傍聴人が座れるのは38席。傍聴券を得ることのできたぼくは、そのうちの一席を占めていた。検察側の求刑は死刑。やはり極刑の判断を待つ、独特の空気が漂っている。

 やがて、いつものように教祖が姿を現わす。

 普通の刑事被告人ならば、3人の刑務官(拘置所職員)がついて法廷まで導いてくる。先導する責任者、被告人を挟んで前に立つ者、それに手錠につながった腰縄を後ろから持つ係の3人1組だった。

 ところが、彼の場合はよほどの大物扱いなのか、あるいは目に障害を持つことへの配慮なのか、十数人の刑務官がしっかりとガードしていた。その彼らが次々と法廷に入ってくると、傍聴席に向かって人の壁を作る。メディアがスクープと喜ぶ隠し撮りを阻止するためのものだろう。その後ろを、目の見えない教祖が通る。刑務官が誘導して被告人席に着かせる。それを確認してから、人の壁は散って、それぞれ所定の位置に着く。その時には、腰縄も手錠も外され、弁護人の前の長椅子に二人の刑務官に挟まれて座っているのだった。

 それが、257回は繰り返されていた。この日の最後の公判回数と同じ257回。いや、正確には、午前の開廷時と、昼の休廷明け、それに午後の公判途中に一度は入る休憩明けにも再入廷はあったのだから、もっとだった。

 随分と長い裁判だった。

 初公判は1996年4月24日だった。あの日も同じ第104号法廷の傍聴券48枚を求めて、1万2292人が参集していた。史上最大規模の傍聴希望者を集めたものだった。いまだに、その記録は塗り変わっていない。

 あれから7年と10カ月にして、ようやく判決にこぎ着けた。怠惰に費やされた時間と人気の失墜は、傍聴希望者数が半分以下に減ったことにも表われていた。

 まさに世紀を跨いだ裁判だった。世紀末にはハルマゲドン(世界最終戦争)が来て日本は滅びる!   と説いていたはずの教祖の裁判は、21世紀に入っても霞が関にある裁判所で延々と続いていた。