1ページ目から読む
5/6ページ目

1950年代 オリンピック直前の東京に激増したもの

日本橋(中央区)1963年1月24日 ©J・ウォーリー・ヒギンズ

 これが、63年の写真になると、西から建設が進んできたグレーの首都高で、街灯の存在がおびやかされ始めているのが見える。そう遠くないうちに、この街灯の全身が見えなくなってしまうことも想像に難くない。

 時期はオリンピックの直前だ。あの頃、都内の道路や高速を走る自動車やトラックの数は年々飛躍的に増えていった。東京の出発点となる街灯は健在といえば健在だったが、まもなく首都高の道路に飲み込まれてしまう。

 立体交差の高速道路に占拠された今のあり様が、本当に東京の中心部として理想的だろうか。オリンピックに伴う整備の一環として、日本橋界隈の首都高の地下化が計画されている。そうなれば、日本橋という橋も、そこに立つ、東京の中心であり、起点となる街灯も、今よりずっとわかりやすくなるだろう。本当にそんなことが実現するだろうか?

ADVERTISEMENT

日本橋三丁目(中央区)1958年6月29日 ©J・ウォーリー・ヒギンズ

 八重洲通りと中央通りの交差点。

 日本についた1956年当時の国鉄ビルは、丸の内北口からちょっと行った、現在の丸善丸の内本店のあたりにあった。その後、国鉄ビルは新社屋を旧本社ビルの南に建てた。東京駅は、もともと丸の内側に1914年に作られたものだ。戦後、再建計画が立てられたが、地上2階までで、3階まで全て再建されたのは最近になってからだ。駅をはさんで反対側の八重洲は、丸の内に比べれば新しい。次々に新しい高層ビルが建って、開発が今も続いている。

日本橋(中央区)1963年1月24日 ©J・ウォーリー・ヒギンズ

 都電の色が緑からクリーム色に変わり始めたこの頃、日本橋界隈では新しい高い建物が建ち始めていた。道路からは三輪トラックが姿を消し、四輪トラックが幅を利かせるようになった。