無党派層はネット上の政治闘争に辟易
ネット上の政治闘争を見聞きしてうんざりした無党派層にとっては、元々あった「政治に関わることは不毛で、かつ時間のムダ」という意識をさらに強固にしたことでしょう。政治的な立場を表明すること自体が、ネット空間、ソーシャルメディア上では嫌がらせや誹謗中傷、攻撃の理由になるからです。それだけではなく、ほどなく「情報戦の戦場」で傷つき、疲弊して、心底絶望して離脱する人々も続々と現れます。そのようなサイクルが繰り返されるとどうなるかは明白です。貴重な可処分時間の使い道を吟味することを考えると、目の前の「政治腐敗の追及」よりも「タピオカの人気店」を、目の前の「ハッシュタグ戦争」よりも「人気YouTuberの最新動画」を選ぶのがベターとなるでしょう。そして、もはや何の役にも立たない選挙制度などを含めた民主主義のシステムそのものが、民意の邪魔をしているボトルネックにしか感じられず、この際それを捨て去ることが最良であるかのようにも思えてくるのです。そのため、「政治家を政治の舞台から駆逐する政治家」を待望する風潮はむしろ次第に強まってゆくのです。これは「政治的無関心」「政治離れ」ゆえの大いなる倒錯といえるでしょう。すでにその兆候は観察することができます。
“庶民”の視点を代弁したホリエモン
2020年7月の東京都知事選への出馬が囁かれていた実業家のホリエモンこと堀江貴文は、そのような人々の受け皿となる可能性が十二分にありました。堀江の著書『東京改造計画』(幻冬舎)には冒頭から都知事の小池を「選挙に勝ちたいだけの自己保身の『政治屋』が当選したところで、思い切った仕事なんてできるわけがない」「言いっぱなしの公約がどうなったのか検証されない政治家とは、ずいぶんとお気楽な商売だ」と痛烈に批判します。軽蔑の意味が込められた「政治屋」とは、「政治家であることそのものが自己目的化し、政治家が本来果たすべき使命をまるで果たせていない」政治家のことを指しています。一般人から比べて高い報酬を得ているにもかかわらず、知事や議員のポストにしがみつくことに注力し、ひたすら当たり障りのない政治家を演じ続けようとする人々。これが庶民の目から見て、道義的に許されない存在であることを代弁しています。「政治的無関心」「政治離れ」を公言する人々であっても、このような特権的地位をひたすら享受するだけの「政治屋」は、憎悪の対象とすべき税金泥棒のように映ることでしょう。