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 少年だったとはいえ同じ時代を過ごした者として、彼の言葉は龍に対して同情的だ。戦中戦後の食糧難の時代を生き抜いてきた老人は、人肉事件に関しては今も半信半疑のようだった。

「だけどよ、今の時代のほうがひどい事件があると思うよ。それに比べると、小さな事件、可哀想な事件なんだよ。あんまり大げさに取り上げてほしくないな」

一家が暮らした家のあった場所にあるゲートボール場 ©️八木澤高明

当時であれば、責められない事件

 龍は逮捕され、実刑判決を受けた。一方、今朝吉と子どもたちは村で暮らしつづけた。老人は、その後龍の子どもたちに降りかかった知られざる悲劇を話してくれた。

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「もう昔のことだから、何歳だったかははっきり覚えていないけど、今朝吉さんと龍さんの間にできた2人の子どもも、結局食いもんがなくて亡くなってんだぁ。お姉さんがお守りをしてたけど、母ちゃんが刑務所に入って面倒が見切れなくてなぁ」

 今朝吉一家は、まさに一日一日を生き抜くために必死だったわけである。そう考えると、本意ではなかっただろうが、トラは己の身を犠牲にして幼い兄弟の命を救おうとしたともいえる。しかしそれは叶わず、結果的に3人が命を落とすことになった。

 人肉を食べるという行為は、飽食の現代から見るとショッキング極まりないが、当時の状況を考慮に入れると、どこで起きてもおかしくはなかった。その証は、老人が今朝吉や龍を責めない態度に表れているように思えた。

 今朝吉一家は事件後も村に暮らし、つい数年前まで、事件当時は奉公に出ていた今朝吉と先妻の間にできた男性も暮らしていた。男性に土地はなく、村の農家の手伝いや炭焼きなどをしていたという。刑務所から出た龍は下仁田市内の寺に引き取られ、そこで余生を過ごした。

 今朝吉一家が暮らした家から目と鼻の先に墓があるというので訪ねてみた。つい最近つくられたと思われる真新しい黒い墓石には、白い文字で今朝吉の名前が刻まれていた。ただ墓誌には、忌まわしい事件を起こした龍と、人身御供となったトラの名前は刻まれていなかった。私は、この地を今も彷徨っているであろうトラの冥福を祈りつつ手を合わせた。

家の跡に残った一本のナラの大木 ©️八木澤高明

 今朝吉の家があったゲートボール場に人の姿はなく、外れに1本のナラの大木が植わっていた。おそらく一家が暮らしていた当時からあったであろうその木だけが、事件の記憶を宿している。

日本殺人巡礼 (集英社文庫)

八木澤 高明

集英社

2020年9月18日 発売