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地下鉄サリン事件「被告人もまた、不幸かつ不運」 裁判長が死刑囚・林泰男をほめたワケ

『私が見た21の死刑判決』より#18

2020/12/26

source : 文春新書

genre : エンタメ, 社会, 読書

  1995年3月、地下鉄サリン事件が世間を震撼させた。事件から2日後の3月22日に、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、やがて教団の犯した事件に関与したとされる信者が次々と逮捕された。地下鉄サリン事件の逮捕者は40人近くに及んだ。この事件で同時に起訴され、主張や弁護人の足並みの揃った実行犯である廣瀬健一と豊田亨、それに送迎車の運転手役だった杉本繁郎の3人がいっしょに並んで、同じ法廷の裁判に臨んでいた。

 その判決公判廷の傍聴席にいたのが、ジャーナリストの青沼陽一郎氏だ。判決に至るまでの記録を、青沼氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から、一部を抜粋して紹介する。(全2回中の2回目。前編を読む)

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殺人犯への讃辞

 杉本の場合は、病気が理由だった。大学を出て、証券会社に就職したものの、体調が悪くなったことをきっかけに83年に退職していた。顔や唇が突然腫れ上がり、不整脈、甲状腺機能亢進症と診断され、ずっと自宅で寝て過ごす療養生活を送っていた。その頃に読んだオカルト雑誌がきっかけで、麻原に手紙を書き、上京する。まだ渋谷のマンションの一室にヨーガ道場を営む程度のものだったが、そこで麻原からヨーガの指導を受けたことから、体調が改善していく。病気が治ったという実益が彼を大きく突き動かした。そのまま麻原のもとに出家すると、教団の草創期のスタッフとして組織に参画していく。

 そして、最初に違法行為に接したのが、教団元信徒のリンチ殺害事件だった。教団施設内に侵入した元信徒が、教団幹部らに取り押さえられ、首を絞められ殺されていく模様を、専属運転手として同行した現場で、目の不自由な麻原に逐一報告している。(落田耕太郎さん殺害事件)

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 それから、麻原からスパイ容疑をかけられた信者を1人、やはりリンチで殺害している。教団施設の生活用水に毒を混ぜたとして拘束した信徒に自白を迫って拷問。パイプ椅子に縛り付け、焼けた鉄棒を押し付け、爪の間に針を突き刺し、ペンチで爪を剥がし、それでも認めようとしなかったことから、最後には首にロープを巻き付け、その一端を力任せに引っ張って殺害している。(冨田俊男さん殺害事件)

 そんな事件があったことすら、豊田も廣瀬も知らなかった。彼らが教団内で犯していた罪といえば、理科系技術者として自動小銃の密造開発を手掛けていたことくらいだった。