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「イキそうになったら言ってね」

 と、おねえさんが言ったことを覚えている。

 枕元に水色のネピアの箱が置かれていたのが、なぜか記憶に鮮明。演技なのか、演技でないのか、おねえさんは少なくとも自分の彼女よりも、コトの最中の声は数倍大きかった。ほどなく果てた。

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 目覚まし時計が鳴るまでまだ十分に時間の余裕があった。自分は下着をつけ、おねえさんは襦袢を羽織り、今日の天気はどうだとか、今年の夏休みは沖縄へ遊びに行くつもりだとか、他愛のない話をした。話しながら、この子、タイプだなぁと思った。改めて部屋の中を見渡すと、殺風景このうえない。敷き布団の端にぐちゃっとなったミッキーマウスのバスタオルだけがカラフルで、部屋の雰囲気とのアンバランスさが、悲しげだった。

キスまでしてくれたのは「愛」に違いない

 20分経過を告げる目覚まし時計が鳴り、階下へ。階段を降りる途中、おねえさんが突然キスをしてきた。少し照れる。うれしかった。

個室には花が生けられていた 撮影/黒住周作

「ありがとうね、おにいさん」

 そうか、名乗ってないのだから、自分はこのおねえさんにとって、その他大勢の「おにいさん」の1人でしかないのだ。しかし、しかしだよ。キスまでしてくれたのは「愛」に違いない。他のお客にはしないはずだ。僕にだけ「愛」だ、きっと。

「また、足が向いたら寄ってくださいね」

 しおらしい言葉に、本当にまた来ようと思って玄関に降り、曳き子のおばさんにお金を支払って、店を出た。

飛田新地 撮影/黒住周作

日常生活とは別次元で、エネルギーを補給

 そんなふうに初回の経験を話した後、Aさんは、言葉を選ぶようにゆっくりと、自身の心持ちを分析する。

「ここは飛田だ、おねえさんは商売だと、十分分かっています。でも、おそらく何か事情があって、こういう生身をぶつける仕事を選んだのだろうという境遇を含めて、僕はそのおねえさんがいとおしくなった。コトが終わった後、他愛ない話をした時から、この子は僕のタイプだ、こんな形と違って出会っていれば、恋人になっていたかもしれないとマジで思いました」

 他の風俗にはあまり興味がなく、結構真面目。つきあっている彼女が好きだし、と話すAさんだが、その後2年間で3回、飛田へ行ったという。初回のおねえさんにも再会したし、他の店にも行った。誉められることじゃないことは承知だけど、自分にとって飛田は残って欲しい場所だと言葉を結び、

「日常生活とは別次元で、エネルギーを補給するところとして」

 とも言った。そして、まったく男の勝手な言い分ですよねと笑った。

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さいごの色街 飛田 (新潮文庫)

理津子, 井上

新潮社

2015年1月28日 発売

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