判決は検察側の主張をほぼ認定した。江里口裁判長はのちの最高裁判事。野村二郎「日本の裁判史を読む事典」は「(帝銀事件で)『捜査当局や一般市民は被告の自供があるからと鬼の首でもとったように言っているが、甚だ危険。人権尊重からいっても差し控えるべき』と慎重な態度を見せた」「法廷ではじっくり被告を尋問。録音テープを何度も聴くなどし、死刑判決の結論を出した」と評している。
7月25日付朝日で当時東大法学部の團藤重光教授(のち東大名誉教授、文化勲章受章)も「まず妥当な判決 問題はあると思うが……」と限定的判決を評価する意見を述べている。控訴審も同じ判決で、1955年4月6日、最高裁が上告を棄却して死刑が確定した。
認められなかった再審請求
同日付朝日夕刊の「解説」はこの時代の司法判断の要点を指摘している。
「この裁判は、旧刑(事)訴(訟)法により一審の東京地裁、控訴審の東京高裁とも、事実審を繰り返した結果、平沢の自供と物的証拠、これを裏付けるいろいろな補強証拠をほとんど採用。最高裁の審理もこの一、二審の判断を全面的に支持。平沢を真犯人と断じた。このように証拠に乏しい難事件といわれた帝銀事件について、裁判所に関する限り、一審から最終審まで1つの反対意見もなく有罪の認定が出されたことは、証拠や記録全体が相補って平沢を有罪とする十分な力を備えていたものとみられる」
同記事は再審請求の動きがあることから「(死刑)執行は相当遅れることが予想されている」とした。平沢元死刑囚はその後も無罪を訴え、獄中でも絵筆をとりながら再審請求を繰り返したが、全て認められなかった。
歴代法相の誰もが執行のハンコを押さないまま、39年近くに及ぶ獄中生活の末、1987年5月10日、肺炎のため、東京・八王子医療刑務所で死去した。95歳。生前、森川哲郎氏の長男・武彦氏が平沢元死刑囚の養子に入っており、彼が死後再審請求を続行。2013年に武彦氏が死去した後は、別の遺族が現在20回目の再審請求を行っている。
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