「親とどっちがひどいのか」
1948年9月3日、東京地裁で石川ミユキに懲役15年、猛に同7年、助手の女性には同3年の求刑。同年10月11日の判決では、ミユキに懲役8年、猛には同4年が言い渡された。12日付毎日によれば、起訴事実にある27人の殺人のうち、22人については「証拠不十分」として無罪。5人についてのみ有罪とした。助手の女性については「全くの使用人で、しばしば石川みゆきに忠告していた事実が判明。無罪となった」(同紙)。
「警視庁史昭和中編(上)」は「これを不服とした石川夫婦は控訴し、昭和27(1952)年4月28日の控訴審において、石川ミユキに対しては懲役4年、石川猛に対しては懲役2年の判決言い渡しがあった」と記述する。いずれも一審判決の半分で、いかに立証が難しかったかが分かる。
事件から21年後の「週刊新潮」1969年6月21日号には、ワイド特集「歳月が証したこの人生の損得」の中で「億万長者になっていた『寿産院事件の鬼婆』」という記事が載っている。文中は仮名だが、記事によれば、石川ミユキは「平和条約恩赦で出所し」となっている。控訴審判決の日付はサンフランシスコ平和条約発効の当日だから、すぐ釈放されたのだろうか。
その後は「石鹸、クリーム、魚の行商から商売をやり直し、いまでは都内某所で不動産業を営んでいる」「かつての担当弁護士によると、『女丈夫ですなあ。今は億の金を作ったんじゃないですか』」と記事にある。
「絶対に子どもを殺したりはしなかった。殺すというのは、自分で子どもの首を絞めるとか手を下すということでしょう。そんなこと絶対にしてませんよ。いや、子どもは確かに死にました。しかし、できるだけ食事もやったんです。医師にも診せた。それでも死んだんですよ。なにも当時うちの産院だけで乳児が死んだんじゃないでしょ。あそこの家でもこっちの家でも、食べる物がなくて死んだんじゃないですか。まして、捨て子同然に預けた子どもじゃないですか。預けっぱなしで産院をのぞきに来た親なんて一人もいやしませんよ。それを、事件だと騒がれるようになってから、私の子をひどい目に遭わせてなんて言ったりする。不義の子を産んで、しようがなくて捨てるように持ってきた子ですよ。どっちがひどいんですか。よく考えてよ」。ミユキは怪気炎をあげたと記事は書いている。
戦前戦中、日本の国家は「産めよ増やせよ」を国民に求めた。「しかし、戦争遂行は国家財政を圧迫し、観念的な出産奨励政策は実施できても、子育ての条件は不十分なまま敗戦を迎えた。敗戦後の生活難、家族離散は貧困な母子生活環境をさらに深刻化した。親や夫がいても、子育て、特に乳幼児を育てることは容易ではない。まして単身では途方に暮れるほかない。そんな女性を狙った悪質な犯罪が寿産院事件である」。久武綾子ら「家族データブック」(有斐閣)はこう述べる。
当時は1947年12月に児童福祉法が公布され、児童相談所の設置、戦争でほとんど活動を停止していた乳児院の公設、里親の利用などが定められ、公的な児童福祉体制が整備されようとしていた。では、寿産院事件で明らかになったのはどんなことか。時事通信が日刊で出していた「時事解説」1948年1月26日版は当時の実情を踏まえて分析している。