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約190万人いた当時の「未亡人」

「朝日ジャーナル」1983年5月27日号には長期連載「女の戦後史(10)戦争未亡人」として鹿野正直「『軍国の妻』ゆえに被った屈辱と苦難」が掲載されている。「本来ならば夫に殉ずべきものをとのイメージを漂わせるこの語は、夫に死別した妻たちの生をますます閉ざされたものへと追い込む」「そうして戦争は、特に男たちを殺し合いの場に追い込むことによって、いわゆる戦争未亡人を輩出させた」。

 同論文によれば、厚生省の調査では1949年1月現在の「未亡人」数は約187万7000人。うち「戦争未亡人」がどのくらいかは明らかでないが、各県調査からみれば「未亡人」全体の2~3割程度、約38万~56万人ではないかという。俗に「60万戦争未亡人」といわれたようだ。「『軍国の妻』としての“栄誉”から『軍国の妻』であるがゆえの屈辱への急展開であった」(同論文)。

 物資不足に戦後のインフレもあって、ただでさえ生活が苦しいのに、働き手を失って苦労を強いられ、周囲から好奇の目で見られる反面、「未亡人」としての制約や精神的圧迫も多かった。「夫さえ生きていてくれたら」という思いは、岩手県の農村での「戦争未亡人」の体験をまとめた菊池敬一・大牟羅良・編「あの人は帰ってこなかった」(岩波新書)にもあふれている。

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 大陸からの引き揚者の中には暴行を受けて妊娠した女性もいた。占領下、進駐軍のアメリカ兵との間の子どもを産んだ女性や、売春で望まぬ子どもをはらんだ女性……。寿産院に子どもを預けた女性たちが全てそうだったわけではないが、多発する事件の背景にはそうした深刻な社会の実態があった。

「生みたくないのに、受胎した女たちが生まざるを得なかったのは、人口中絶が法的に許されず、否応なしに生まなければならなかったからである。もらい子殺しの『寿産院事件』は、生まない権利を奪われている女たちの、追い詰められた状況がその背景にある」。もろさわようこ「おんなの戦後史」(未来社)はそう主張している。

 岩の坂もらい子殺しは、救貧立法である救護法の施行を後押ししたとする見方もあったが、寿産院の場合は優生保護法との関連が指摘される。「母体保護」を理由に人工妊娠中絶の条件を緩和した同法が公布されたのは事件と同じ1948年の7月で、施行は同年9月。当初「経済的理由」による中絶は国に否定されたが、実際の中絶理由のほとんどが経済的理由だったため、世論の後押しもあり、翌1949年に要件に追加された。