もらい子殺しは戦前にもあった。東京・板橋区岩の坂のスラムで起きた事件が名高い。今回は戦後混乱期のもらい子殺しだが、戦前とはっきり違うのは、そこに戦争が色濃く影を落としていること。さらに、死亡した子どもが80人以上と異常に多いうえ、それが地域で地位も名誉もある産婆(助産婦)による犯罪だった点に問題の奥深さがある。

 時代を動かした大きな出来事は最も弱い部分にしわ寄せがいく。もらい子殺しはその典型で、被害者は女性と子どもだろう。ひるがえって、現代にそんな事件はないかと考えると、代わって実の子に対する虐待、ネグレクトなどが頻発。死に至る事件も珍しくない。それらは直接的には親ら個人の責任だが、背景には社会の混乱と民心の荒廃という重い現実がある。今回も必要上、「差別語」や「使用禁止語」が登場する。

自転車のミカン箱に乳児の遺体!?

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 それは敗戦から約2年5カ月後の1948年1月12日のことだった。最も早く報道した1月15日付毎日2面(当時新聞は朝刊のみ2ページ建て)3段、「みかん箱にも五個 奇怪な嬰(えい)児廿(二十)数死体 葬儀屋に疑惑深まる」が見出しの本文部分を見よう。

事件の一報と思われる毎日の記事

 12日午後7時30分ごろ、同(早稲田)署員が管内弁天町20先を密行中、自転車に乗った榎木町、某葬儀屋(54)=特に名を秘す=が通りかかったので検問すると、自転車の後ろのミカン箱に嬰児の死体1個がメリヤス(ニット)のシャツとおむつに包まれて入れてあり、さらに追及の結果、既に同日、このほかにも4個の死体をいずれも新宿区、無職某(55)と産婆の同人妻(51)=特に名を秘す=方から運び出していると語り、さらに昨年8月以来二十数個の別の嬰児死体をここから運んだことがあるとも語っているところから、この3名に対する怪事件の疑いを持つに至ったものである。なお、この葬儀屋は死体の処置について「きょうは遅いから、あす火葬場に持って行くつもりだった」と語っていて、その扱いに相当不審な点があるので、同署では確証をつかむまで内偵を続ける一方、一応葬儀詐欺により令状を請求したもので、その後の内偵によると、この死体を出した産婆方では、これまで何回も田舎から雇った女中はなぜかすぐに暇を出している事実や、近所の話では、嬰児の扱いについていろいろと疑わしい風評もあるので、今後調査の進展によっては怪奇極まる事件に発展するものとみられている。