昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

連載昭和事件史

2021/01/31

 1月18日付朝日は「石川夫妻は殺人罪 葬儀屋も“幇(ほう)助”で収容」の見出し。これ以前から毎日、読売は「石川ミユキ」とカタカナ表記。この段階で朝日も同調(「警視庁史昭和中編(上)」もカタカナ)したが、その後も表記は混在する。

 17日に至り両名(石川夫妻)とも「自分たちが与えていた養育量では子どもが死に至ることを知っていた。母のある子どもが死亡した場合は、母のない子どもが死亡したことにして配給ものを取った」と殺意を認めたので、同日正午、平山検事は両名を殺人罪で、葬儀社の長崎龍太郎(54)を殺人幇助で強制収容に付した。なお検察当局では殺人罪のほか詐欺、食管法違反、死体遺棄の疑いも濃厚で、この方面も追及する模様である。

「強制収容」とは検察送致のことか。

「こちらは300円ですが、こっちは器量がいいから500円いただきます」

 朝日の記事はさらに「死亡は百三名」の見出しで「壽産院のもらい子と死亡数は、17日夕刻までに分かったところでは、昭和19年から現在までに、もらい子204名、死亡は103名で(昨報数は誤り)、19年、20年は死亡率が低かったが、21年暮れごろから率を高め、22年には実に80%となっている」とある。

©iStock.com

 さらに「死亡せずに同院の手を離れた残り101名の子らのうち、再び親に引き取られた少数の子を除く大部分は、広告によってもらいに来る希望者に、1児について400~500円の謝礼を受け取り、結局母親と希望者から二重に金をとるという方法をとっていた」と記述。

 同産院から女児をもらったという女性は「女の子が欲しいと言ったら、産婆は2人の子を見せ、こちらは300円ですが、こっちは器量がいいから500円いただきますと、まるで店で品物でも売るような様子でした」と語ったという。 

 最終的に寿産院で死亡した子どもの数ははっきりしない。「警視庁史昭和中編上」は毎日と同じ85人としているので、最低の人数という意味でこれに従うしかない。のちには「元某侯爵、某子爵に関係ある者が2名いたといわれる」(同年2月18日付読売)という報道も。

憲兵だった夫、地元の産婆会の会長も務めた妻

 朝日には石川夫妻の経歴も載っている。それによれば、石川ミユキは宮崎県生まれで18歳で上京。東京帝大(現東大)病院付属産婆講習所を卒業し、23歳で猛と結婚した。日本橋、牛込で開業。空襲前から現住所に移り、1947年、自由党(当時)から新宿区議に立候補して落選した。

 夫の猛は茨城県生まれ。農学校を2年で中退し、18歳で現役(兵役)志願して、憲兵軍曹で除隊した。1919年、警視庁巡査に。谷中署、王子署などに勤務。1926年に退職した。

 ミユキは地元の産婆会の会長も務めており、表面的には社会の表通りを堂々と歩く夫婦だった。