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 事件に対応した動きがなかったわけではない。「棄子院も計画 厚生省、壽産院事件にかんがみ」(1月25日付毎日)は、厚生省が乳児院の増設、民生委員の権限強化などの対策をとるという内容。「“棄児台” 赤ちゃん預かります 心配無用 済生会産院で」(2月5日付読売)は、いまでいう「赤ちゃんポスト」のような捨て子を受け入れる取り組みだった。東京都も「助産婦の育児禁止 都立乳児院も設置」(2月6日付毎日)を決定。「繁盛する赤ちゃん相談所 捨てる人、預ける人、貰うひとまで」(2月7日付読売)は、済生会産院に設置された「乳児身上相談所」に捨て子が持ち込まれたことを報じた。

 その間の1月26日、東京地検は石川夫妻と助手の女の3人を殺人罪で起訴。長崎については証拠不十分として起訴せず、釈放した。

続々あらわれた「第2、第3の寿産院」

 しかし、寿産院は氷山の一角でしかなかった。

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「死児六十一 第二の壽産院を取調べ」の見出しで報じたのは2月10日付朝日。寿産院事件をきっかけに警視庁が捜査中、「都内某産院(特に名を秘す)が同区内の葬儀社に依頼した死亡児の埋葬手続きに不審の点を発見。6日、これをおさえ解剖の結果、栄養不良による死亡と判明。いよいよ疑惑が深まり、7日、検証ならびに押収令状を取って同院の家宅を捜索し、証拠書類を押収。所轄署で院主某女(44)を任意出頭の形で連日取り調べている」。取り扱った子どもの数は分からないが、死亡診断書が出ているのは61人に上るとした。

 朝日は翌11日付で「新宿区戸山町2ノ9、淀橋産院」と実名を出した。さらに、文京区の駒込産院でも、寿産院や淀橋産院と同様、戸籍のある乳児の死亡を無戸籍として届け出、育児物資の配給を受けるなど、“第三の寿産院事件”とされる不正行為をしていたことが判明。死亡乳児は22人とされた。また、文京区本郷の長谷川産院では、妊娠して処置に困った女性十数人に堕胎手術を行っていたことが分かり、院長が戦後初の堕胎罪で起訴された。

戦後の混乱は第二、第三の寿産院を生んだ(朝日)

戦争「未亡人」の悲劇

 事件の内容を詳しく見ていくと、戦前の「岩の坂もらい子殺し」がスラムぐるみの金目当ての犯行だったのに対し、戦後の寿産院をはじめとするもらい子殺しは、戦争による深い傷痕が露呈したものだということが分かってくる。

 雑誌「婦女界」1949年1月号には「私はなぜ子を捨てねばならなかったか 『壽産院事件』の眞相を語る涙の手記」が載っている。結婚して5日目に夫が召集され、その後戦死の公報を受けた女性が、夫の学友の男と同棲。妊娠を伝えると男は家を出て行った。迷いながら出産した後、死んだはずの夫が生還。ほかに手段がなく、寿産院に子どもを預けた。事件発覚後、駆け付けて子どもを引き取り、夫と別れて生命保険の外交員をしながら、1人で子育てしている――という内容だった。

“エログロ”が売り物だった「りべらる」1954年12月号の「特集 セックスアプレゲール十年史」にも「壽産院に哭(な)く」と題した手記が。「罪深い縁(えにし)を持って生まれた子のやせ衰えた姿を私は壽産院の一隅に見たのです」という副題だが、事件発生時、産院に駆け付けた横浜市港北区の女性の体験談と思われる。

 満洲(中国東北部)で結婚していたこの女性は、夫が現地召集されて戦死。日本に引き揚げてきたが、夫の実家にいたたまれず、横浜の喫茶店に住み込んで働いた。そのうち、客の妻子ある会社員と深い仲に。間もなく男は別の女に走り、彼女は妊娠して出産。新聞の広告を見て子どもを壽産院へ。事件後、子どもを引き取り、いまは土建屋の「妾」となり、飲み屋の女将をしていると書いている。2人とも「戦争未亡人」(1人は後で夫が生還したが)だったことになる。