店舗の奥隅に大型のまき割りが立てかけてあった。その峰の部分に頭髪や血痕が付着している。これは凶器に違いない。峰の部分に付着物があるのは、その部分で殴打したことを意味する。そうだとすると、犯人は面識のある者に違いない。面識がない者だと、刃の部分で殴打するのが例である。台所の洗面器やコップから山口の指紋が検出された。殺人現場のこうした指紋は犯人のものに相違ない。それは血染めの手を洗い、のどの渇きを止めるため水を飲むからである。
道路寄りの主人の部屋には、主人夫婦と二人の子どもが頭部の割創で死んでおり、布団をかぶせてある。こうしたことも面識者の犯行に多い。流しの犯行だと、布団や毛布などをかぶせることは少ない。いかに凶悪な犯人であっても、その顔を見るに忍びないのだろう。
この見方が捜査本部内で説得力を持っていれば、事件解決はもっと早かったに違いない。しかし、実際はそう簡単には進まなかった。
「ナゾは“住込女中”」
続報の23日付朝刊。朝日は2面4段、「ナゾは“住込女中”」の見出しで報じた。捜査本部が「第一発見者」の山口と通いのコックに「同日(22日)朝9時半より約13時間にわたって事情聴取の結果、“お目見え強盗殺人”ともいうべき珍しい犯行とみられる説が有力になってきた」がリードで、次のように続く。
山口君らの話によると、凶行前日の21日夕刻、「太田成子」という25、6歳、パーマ、小太りの洋装の女が「女中募集の張り紙を見て来た」と言って同家階下の三畳に泊まり込んだが、事件が発見されたときは既に姿をくらましていた事実、発覚とほぼ同時刻に、岩本さん方でなくなった永楽信用組合(同区築地3ノ8)の通帳(14万2000円記入)を出し、でたらめな印鑑で14万円を払い下げようとした女があったことなどをつかみ、この太田という女が事件の有力なカギを握るものとみて追及している。お目見え強盗殺人の理由として、本部は次の事実を挙げている。
▽同夜、“ナゾの女”太田が泊まってから若い男が訪ねて来た形跡がある
▽女の泊まった部屋の布団は片づけてあった
▽店先、勝手口のカギはいずれも内側から開けてあった
▽女の部屋にあった売上金6千余円には手をつけず、14万2000円記入の永楽信用組合通帳、5万円記入の千代田銀行通帳がなくなっている
捜査本部は以上の点から女の正体をつかむのに主力を注いでいる。なお、付近の旅館、待合などをも調べ、女の行方を捜査している。一方、発見者山口君の申し立てにも二、三不審の点があり、同夜深更まで聴き取りを続行して、同君を保護室に泊めた。
「お目見え強盗殺人」とは、「女中、下男または丁稚(でっち)、事務員その他の雇人として雇われるためにお目見えに住み込み、数日間その家で目見得している間に主家の金品を窃取して逃走する手口」(守屋恒浩「犯罪手口の研究」)を「(お)目見得盗」と呼ぶのをアレンジしたのだろう。しかし、文中にもある通り、事例はほとんどない。当時の14万円は2017年換算約98万4000円、6000円は約4万2000円になる。
「あんな天真爛漫な犯人があってたまるか」
「毎日新聞の24時間」は、この事件での捜査本部取材について書いている。「築地警察の2階は講堂になっていた。その講堂の隅の10畳ばかりの小部屋に捜査本部が置かれていた。刑事が入れ代わり立ち代わり出入りしていた。本部から誰かが出てくると、講堂にたむろしている各社の記者がワーッと取り巻いて質問を浴びせた」。中でも山口は事件のキーパースンだった。
「警視庁史 昭和中編(上)」もこう書いている。