捜査本部内には、届け出た山口常雄の供述も全面的には信用できないとする者、山口が真犯人ではないかと疑う捜査員もなくはなかったが、事件を感知して届け出た山口は、その日『どうせ行く所がないから、今晩はここに泊めてください』と言って刑事(デカ)部屋で一夜を明かしたり、数十人の記者団に囲まれて、カメラのフラッシュを浴びながら堂々と質問に答えるなど、その態度には少しの疑念を抱かせるものがなかった。また、山口の述べた太田成子なる女の人相が、目撃した数人の証言と一致している点からも、山口に対する容疑は否定的であった。
「太田成子」は八宝亭に来た客と、22日朝、八宝亭を出た後、朝食に寄った近くのすし屋で目撃されていた。
新聞各社の徹底マークと「独占手記」
新聞各社も彼を徹底マークしていた。「毎日新聞の24時間」は山口を「名演技者」と名付けて次のように書いている。
山口はあけっぱなしの態度で取り調べにこたえた。暗い陰などどこにもなかった。そういう山口の演技に本部はすっかりあざむかれたようだ。山口の姿は犯罪者のそれではない! という経験からの結論であった。
その(2月23日)夜、(捜査)本部では、山口の身柄をどうするかという協議が行われた。山口が黒でないにしても、白だとする証拠がない限り、留置する方がいいという声もあった。しかし、逆のこともいえるわけで、何らかの物的証拠がない以上、山口の身柄を拘束することは許されなかった。その釈放論が次第に大勢を制してきたのも、潜在的に「あんな天真爛漫な犯人があってたまるか」という意識が働いていたに違いなかった。
「山口が2日間の事情聴取を終えて自由になったのは(2月)23日夜だった。捜査本部のデカたちの話によると、山口は完全にシロになったわけではないが、容疑は薄いので、一応調べを中止し、重要参考人として事件解決に協力してもらうというのである」(毎日新聞社会部編「事件の裏窓」)。
動きを察知した新聞各社は山口の出てくるのを待ち構えた。「(午後)10時をちょっと回ったころ、案の定、山口は築地署の車で送り出された。各社の車は一斉にその車を追った。ところが、各社とも、銀座を抜け、神田にかかったところで見失ってしまった」(「毎日新聞の24時間」)。
それでも、毎日の記者2人は都内の親類の家で山口をつかまえ、「もし、あなたが疑われても、新聞社がバックになっておれば心配はありませんよ」という「殺し文句」で「うまく山口を引っ張り出すことに成功」。築地署に近い毎日新聞の寮に連れ込んだ。そして「嘘で固めた『八宝亭の4人殺しのただ一人の生き残りとして』という文句で始まる手記が書かれた」(同書)。
「お嫁に行くまでいくらか金をためたい」と...
その「独占手記」が載ったのは2月25日付(24日発行)夕刊毎日だった。「この事件のかぎを握るただ一人の人物で、(捜査)本部でもその証言を唯一の手掛かりとしているが、その彼が帰宅を許された夜、本社のために手記を寄せ、犯行当夜の生々しい情景を次のようにしたためてくれた」という前置き。