ここには純然たる矛盾がある
「推し文化」やそれを背景とした『ツイステ』が、そうはいっても消費文化であり、男性を記号化しているという批判は、以上のような議論を通過した上で行われるべきことだと私は考える。いまだに残るジェンダー不公正に鑑みれば、「女性が男性を(または女性を)消費する」文化と、「男性が女性を消費する」文化は、同じ基準では判断できない。
実際、『持続可能な魂の利用』は、そのような矛盾を十分に意識した作品になっている。敬子は彼女を捉えてはなさない××とそのアイドルグループのパフォーマンスが、有名な男性プロデューサー(モデルは明らかだろう)によって管理され、搾取されたものであるという矛盾を常に意識している。
また、真奈という登場人物は、かつてアイドルだったのだが、ファンが創作した、自分を題材にした卑猥な小説をネットで目にしてアイドルをやめてしまう。ところが彼女は、性的にデフォルメされた魔法少女のアニメキャラを見て、「エロい、と無邪気にほくそ笑」む。
ここには純然たる矛盾がある。性的に記号化される苦しみと、性的な記号化に力を得ること。それが資本主義的な消費である以上、「推し」にお金をつぎ込む彼女たちが消費者としても搾取されていることもまた、それが与えるエンパワメントと矛盾の関係にある。
『ツイステ』もその圏域内にあるような、「推し文化」のこのような矛盾は、にわかに解決すべきものではなく、できるだけ矛盾のままに留め置かれるべきかもしれない。もちろん、誰かをエンパワーする文化的な表現が、ほかの誰かを大きく傷つけ、その犠牲の上にエンパワメントが成り立っているのなら、話は別である。だが今はまだ、推し文化そのものについてそのようなことを言う時ではない。