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連載昭和事件史

2021/03/14

「犯人は、同居人の飯田利明(22)が所在不明なので、有力な容疑者として原宿署では指名手配した。同家では前日、近くの郵便局から600円を払い戻しているが見当たらず、痴情関係か物取りの凶行かは不明である」

 既に容疑者を断定している。毎日、読売だけでなく、朝日も「飯田利明」と表記しているが、「警視庁史昭和中編(上)」では「飯田昭」になっている。同様に、妻の「とし子」は「登志子」、「岸本まき子」は「岸本マキ子」、「榊田はる」は「榊原はる」になっており、それに従う。

元日活女優の夫人との「痴情の果て」?

 読売が見出しも含めて「痴情」の可能性に触れたのは、仁左衛門夫婦の“年の差婚”が主因とみられる。3紙とも記事で触れているが「現夫人登志子さんは芸名小町とし子といった日活の女優」(毎日)。

 事件直後に刊行された「週刊朝日」1946年4月14日号も「仁左衛門殺しの分析」の見出しで動機を推理した中で「痴情の果て」を挙げ「これは誰もが考えることだし、また一応は考えたくなる被害者である」と書いた。「もっともこれは関係者一同口をそろえての証言で、登志子夫人にはそうしたうわさも素振りも決してなかったというので、痴情説は打ち切り」と取り消してはいるが。

「それを見た私は、犯行の動機を直感した」

凶器のまき割り(「警視庁史中編(上)」より)

 警視庁捜査一課長などを歴任した三宅修一の「捜査課長メモ」は、現場を踏んだときのことを次のように書いている。「凶器は厚刃の刃物で、全員が頭部と顔の上部をやられていた。夫人の鼻柱から流れ落ちる血はふけどもふけどもあふれ出た」「坊やは哀れにも後頭部に深傷があり、誠に酸鼻目を覆わせる惨状であった。発見者のお母さんが、あまりのことに驚き、一時歩けなかったというのも当然と思われた」。

 さらに、飯田の部屋では――。「入り口寄りにあった衣装ダンスを見た。その中には飯粒のついた洋皿2枚と、お菜の煮汁の残っている小鉢2個が上下に隠されてあった。洋皿の1枚には、黄ザラ(ザラメ)の砂糖をかけ、飯を食べた跡さえ見られた。それを見た私は、犯行の動機は飯だなと直感した」。

「花の橘屋」の相手役に

 片岡仁左衛門は現在も残る歌舞伎の大名跡だが、事件に遭ったのは十二代目。経歴については、「戦後歌舞伎の俳優たち」(2008年刊行)を見よう。

十二代目片岡仁左衛門の紹介(「戦後歌舞伎の名優たち」より)

 屋号「松嶋屋」。明治15(1882)年9月9日、東京・浅草今戸生まれ。十代目仁左衛門の甥養子で、片岡家代々の芸歴に従い、上方を本拠にしながらしばしば東上。芸域は女形を主、立役(男役)を従にして活躍した。昭和9(1934)年に六代目尾上梅幸が他界すると、相手役を失った十五代目市村羽左衛門に望まれて東京へ移住。立女形の地位を得るようになった。

 【芸歴】明治18(1885)年、千歳座の舞台開きの際に本名のまま初舞台。明治28(1895)年5月、弁天座で父の幼名であった片岡土之助の二代目を名乗る。明治34(1901)年4月、大阪・角座の父の七回忌追善興行で「妹背山」の久我之助と橘姫などを務め、四代目片岡我童を襲名。昭和11(1936)年1月、歌舞伎座「三千両初春蔵入(馬切り)」の織田信孝などで十二代目片岡仁左衛門を襲名。長男は十三代目片岡我童(十四代目片岡仁左衛門追贈)、次男は現市村吉五郎(十五代目市村羽左衛門の養子)、三男は現片岡芦燕。