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連載昭和事件史

2021/03/14

 ただ、読売には「おムツまで洗つ(っ)た仁左」の見出し通り「いままで台所などには姿を見せたこともなかった丈が、急に自分から進んで子どものおムツを洗ったり、配給米の米つきをしたりして、若い登志子夫人のご機嫌とりに汲々(きゅうきゅう)とする変わり方だった」ともあり、夫婦関係はよかったようだ。

おはち、米びつを封印

容疑者は同居人とすぐ分かった(朝日)

 3月18日付朝刊では、朝日「“仁左殺し”同居人か」、毎日「同居人に嫌疑濃厚」と2紙とも報じた。さらに各紙は

1、前夜、近所の人が訪れたときには飯田は在宅していた
2、被害者の1人、岸本マキ子は飯田の実の妹で、逃げ回ったらしく、血痕のついた足跡が点々と八畳間についていた
3、榊原はるは、物音に気づいて起き出ようとしたところを襲われ、傷はまき割りがそれて左頬から耳を切り飛ばされていた
4、登志子だけは、まき割りでめった切りにしたうえ、刃物で2回頸部を切っており、特に恨みが強かったと思われる
5、飯田は犯行後、仁左衛門の国民服に着替えて逃走したとみられる

 ことなどを伝えた。朝日は「怨恨説が有力」の見出しの別項で、近所の人の話などからこう書いている。

(飯田は)平素から仁左衛門夫妻と食物のことで仲が悪く、飯田、ばあや、子守りの3人は別々に炊事をしていたことは近所の者が皆認めているから、食物の恨みからともみられる節もあり、殺人の日、台所には大根が1つしか残っていなかったから、食生活はあまり豊かではなかったこともうかがわれる。

 同家の生活は、近所の人の話によっても、恨みを受け殺害までされるとは考えられぬが、食糧は相当困っていたらしく、食事も同居3人は2食のみ与えられ、副食も夫妻の分は食卓の下に置いて食べていたという。ばあやのはるさんが握り飯を盗んで食べたとき、きつい注意を受け、また、はるさんは近所を回り食べ物の無心をしたこともある。

 登志子さんの外出の際には、おはち、米びつを封印。家を空ける際は食事の割り当てをしていたほど、食事に厳格だったようである。

飯田の失踪とその結末

 その後、飯田の消息は途絶える。「飯田の足どり 依然手掛りなし」(3月19日付朝日)、「怨恨か痴情か、飯田の足どりなほ(お)不明」(読売)、「近くに潜伏か」(同日付東京)、「共謀者探索」(3月20日付朝日)、「関西へ捜査網」(同日付毎日)……。

 「捜査課長メモ」はその間の捜査の動向を伝えている。「翌日の夜行われたお通夜の席には、東京はおろか各地から、この悲報を聞いて多くの人々が集まってきた。その1人の弟子から次のような話が出た。『森田(飯田)はこの前、巡業のとき、夫妻から疎開中の妹を迎えにやらせてもらった温泉場はとてもいい所だった。もう一度行ってみたいと話したことがある』。このちょっとした話から、行方の知れぬ森田の追加手配が行われた。腹ごしらえと着替えまでして逃げ出した彼である。絶対自殺はしないとみていたからである」。その読みは当たった。

逮捕記事の主見出しは「一日二食の反感」だった(毎日)

 食と妹の財産の恨み “仁左”殺し飯田捕は(わ)る

 “仁左”殺しの有力な容疑者として警視庁捜査一課が全国に指名手配している同居人、片岡一座座付き作者、森田こと飯田利明(22)は20日午後、宮城県玉造郡川渡村、温泉旅館で岩出山署員に逮捕された。21日朝、身柄引き取りのため、捜査一課と原宿署から同地に急行した。同所は、まき子さん(12)が在学していた山谷堀国民学校の疎開先だった所である。23日午後、同人の着京を待って本格的取り調べが行われる。