十五代目市村羽左衛門は大正から昭和戦前を代表する歌舞伎役者。来日アメリカ人と日本人女性の間に生まれたとされ、その二枚目ぶりから「花の橘屋(屋号)」と呼ばれたが、敗戦の年の1945年5月、疎開先の長野県で死去していた。父と同じ歌舞伎俳優となった仁左衛門の3人の息子は既に独立。また長女照江(5)は登志子の実家に遊びに行っていて難を逃れた。
「小町とし子」時代の登志子については「キネマ旬報増刊日本映画俳優全集・女優編」による。
1921(大正10)年、東京市神田区の生まれ。本名・吉田登志子。父と兄が長唄の名取だったことから、小さいときから長唄を修め、藤間甚四郎に師事して日本舞踊を習い、しばしば公演の舞台に立ち、かたわら声楽も修める。1937(昭和12)年2月、日活多摩川撮影所へ入社。たまたま原節子がヨーロッパへ訪問旅行に出たため、春原政久監督「嫁ぎ行くまで」(1937年)に予定されていた原の代役に起用され、主演女優として幸運なデビューをする。その後「日月と共に」「若しも月給が上ったら」(1937年)に脇役ながら重用されるが伸びきれず、「雲雀」「純情の眸」「今日の船出」(1939年)ほかに助演し、1940(昭和15)年に退社した。
同書には写真も載っているが、健康的で明るいタイプに見える。
不倫から始まった二人の関係
夫妻については3月18日付1面で報じた東京の記事に記述がある。
仁左衛門丈と敏子(登志子の誤り)さんの関係は、敏子さんの父が長唄師匠・杵屋彦十郎だった関係上、近づきになり、敏子さんが「小町とし子」の芸名で日活映画女優当時、仁左衛門丈に気に入られ、妾(めかけ)となったものの、その後同丈の本妻が死亡したので本妻になり、現在に至った。これについて、同人と親交のあった故羽左衛門丈は、映画俳優を嫌い、反対したがこれを押し切って結婚したもの。
二人の関係は、いまでいう「不倫」から始まった。事件翌年に出版された佃順「芸能実話明眸哀史」は内容にフィクションが入っているようだが、お抱えの自動車で連日のように撮影所を訪れ、登志子を自宅に送る仁左衛門の姿を描いている。同書によれば、1941年、二人の間に子どもができた後、正妻むつが病死。翌年、登志子が正妻として披露された。
3月19日付読売も「仁左衛門丈は梨園の名門で立女形だけに、丈をめぐる女性関係はひどく華やかなもので、6年前、日活のワンサガールで藤間勘齊の芸名を持つ藤間流名取の登志子夫人を見初めて第二号夫人に所望。先夫人はこの恋愛遊戯に気をもんだ揚げ句、食事も医者の薬もろくろくとらず、狂死のような死に方をしたと丈の側近者は語っている」と書いている。
「芸能実話明眸哀史」は「舞台の上で誰よりも大切な亭主役、羽左衛門をはじめ、近親、後援者筋のほとんどがみな口を極めて反対したにもかかわらず、仁左はついに亡妻おむつののち添えとして、小町を正式に松嶋屋へ迎え入れたのだ」とし、二人の結婚に不吉な運命を見ている。