3月23日付朝日は2面3段でこう報道した。「捜査課長メモ」は「手配を受けたその地の警部補派出所員が十数軒の旅館に当たっていた。とある旅館の娘さんから話があったのである。『初めてのお客さまです。昨晩用事で行ったとき、夕刊を見ていたその方が、これは俺がやったんだ、と独り言を言っていました。私はただ、変なことを言うお客さまだなと思っていましたのに』」と書いている。朝日はさらに「仙台発」でこう報じた。
「犯行の一切を自供した」
川渡温泉で逮捕された飯田利明は、岩出山署で警視庁から出張の係官から一応取り調べを受けた結果、犯行の一切を自供した。それによると、飯田は15日午前6時すぎ、凶行を演じたもので、その原因は前夜、妹の財産1万5000円のことで仁左衛門夫妻に嫌味を言われ、カッとなり、妹が子守りばかりさせられ、学校にもやられず、配給のメリケン粉ばかりで米の飯も食わせないではないかと食ってかかり、これらを恨みに思ってやったと言っている。凶行後、いったん自殺を決意したが思い返し、混雑に紛れて常磐線に乗り込み、高飛びしたもの。
1万5000円は2019年換算約61万円。戦災保険だったとみられる。同じ日付の東京によると、マキ子は1944年から始まった学童疎開で川渡温泉の旅館に疎開中、「利明は一、二度、同女を訪ねていったことがある」と書いている。しかし、同旅館では「外食券」を持っていないことから断られ、別の旅館に泊まったという。
当時は外食券か米を持っていないと旅館も泊めてくれないことがあった。警視庁に連行された飯田は動機など、犯行のほぼ全てを供述した。代表して3月24日付朝日の記事を見よう。
昨(1945)年9月末、徴用解除となって北海道から帰り、10月1日、新宿第一劇場に仁左衛門を訪れ、亡父が30年も厄介になった関係から松竹で働くことになり、(仁左衛門に)引き取られて同居することになった。座付き作者として一興行100円(2019年換算約4100円)、男衆としての手当が2、30円(同810~1220円)で生活は苦しかった。主人たちは奥八畳間で電気コンロで炊事をやり、自分とばあさんと妹は縁側で炊いた。配給の代金は別々に支払い、米、野菜などは応接間に主人たちのと一緒に入れて、カギは夫人が握り、いちいち夫人がマスで計ってばあやに渡した。ご飯は3日ずつ一度に炊き、3人で三等分する。3日分3人で1升3、4合ずつくれたが、配給分は1升8合はあるはずだ。朝はかゆ、夜は盛り切り、昼は抜き。そのばあさんも、米を渡されたとき、少しずつくすねていたようです。
凶器のまき割りは飯田らが縁側で煮炊きするときに使っていたもの。主従の間の格差は歴然で、飯田たちが朝食べていたかゆは、薄くて天井が写ることから当時「天井がゆ」と呼ばれていた。記事は続く。
1月に大阪興行があったきり興行がないので金は1銭も入らず苦しい思いをしたが、そのころ夫人から「腹がすいたと言って近所でもらい食いするなんて外聞が悪い」と叱られた。それ以来、四畳半に自分と寝ていた妹を「おまえのように、妹の財産まで狙うやつは……」と引き離され、妹は主人たちの八畳間で寝ることになった。私は妹の財産や貯金のことなど何も知らなかった。妹もいつか私たちのことを告げ口するようになり、気まずくなった。月の朔日(1日)と15日は芝居では「おめでとう」と言う習慣があり、あの15日、「おめでとう」と言っても返事もしてくれません。何か、私が自分のと妹のご飯を取り替えたと前夜、妹が告げ口したのだそうです。夜11時半ごろ、六畳間で主人から「おまえのような者は家に置けない。あすは出て行け」と宣告され、いままでのうっぷんで、2時間も言い争いました。当たり散らして八畳間に入った後、主人から「4月興行の客引き原稿を書け。その金をやるから、おまえの身の振り方を見つけるのだ」と言われたので、書き上げたところ、主人は「これでも作家か」と投げつけて奥の間に入ってしまいました。
まき割りにつまずいて殺意がむらむらと……
いよいよ犯行の場面になる。そこには重要なきっかけがあった。
後片付けを済ませ、四畳半の寝間に入って寝ても寝つかれません。6時半ごろかと思います。寝つかれないまま便所に行くと、廊下にあったまき割りにつまずき、まき割りを見ているうちに殺意がむらむらと湧き、そのまま奥八畳間に侵入し、主人に一撃くれると、うーんと立ち上がったのでめちゃめちゃに打ちつけ、次に奥様を打ちつけ、そのころから夢中になって、あのような惨劇を犯すようになりました。
実に陰惨で救いがなく、当時の人々のささくれだった心情が表れている。