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 服役した池田は模範囚として1960年8月、仮釈放に。1980年3月26日付読売朝刊が社会面トップで報じたところによると、出所後、妻の実家に身を寄せたが、就職は全てうまくいかず、出稼ぎと行商、妻が働いた収入で生計を立て、現在は軍人恩給と妻の年金で暮らしているとしている。

 この記事は1979年12月から1980年4月まで読売大阪本社社会部が連載していた「戦争」シリーズの取材の中から生まれた。訪れた同部の記者に対して池田は、母が一審判決の日に首を吊って死んだと語り、「オヤジも翌年の12月22日に死にました。心労が重なったとですよね」と漏らした。

「“誤報”に近い感情的なもの」

 その後も冤罪を主張する池田に支援の動きも出始めた。雑誌「現代の眼」1978年8月号所収の柳田邦夫「『暁に祈る』事件と軍律の悪夢」は判決の判断に疑問を提示。「吉村批判」が国民的合意のように広がったことについて「マスコミ報道の、特に“第一報”の持つ恐ろしい影響力について恐れに似た感情もある」と述べ、最後にこう書いた。

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「捕虜収容所内でのリンチや残虐行為が全く『幽霊』だったということは、にわかに信じがたいが、といって、『吉村隊長』なる人物がさながら冷血な殺人鬼のごとき存在だったという報道も、今となっては“誤報”に近い感情的なものだったといえるだろう」

 そして、仮出所から19年後の1979年8月、池田は「虐待は事実誤認」として東京高裁に再審を請求したが、翌1980年12月、棄却された。

再審請求を伝えた読売

 その後も再度の再審請求を望み、1986年には「活字の私刑台」という著書を出版。「はじめに」の冒頭では「私は朝日新聞社に殺された」と書いた。依然として元隊員の証言に反論し、「暁に祈る」の実態は違うと主張して自身の責任を否定する内容だった。だが、果たせないまま1988年9月11日、脳出血で死去した。73歳。9月12日付朝日夕刊の訃報は50行近いベタ記事という異例の扱い。冤罪を訴えていたことを繰り返し記述。「弁護士やジャーナリストらが『暁に祈る』吉村隊事件調査団(団長・高山俊吉弁護士)を結成。無実を主張する調査結果をまとめたばかりだった」と締めくくっていた。

「戦後史の曲がり角」と「暁に祈る」事件

 事件の新聞報道と刊行物を読んで疑問に思うのは、朝日のキャンペーン報道がセンセーショナルだったにせよ、国会と検察がなぜあれほど敏感に反応し、それぞれ対応したかだ。それには“裏”があったのではないか。

 敗戦から4年。中国大陸では共産党軍が国民党軍を圧倒し、翌年の朝鮮戦争につながる国際的緊張がみなぎっていた。日本国内でも戦後処理はまだ半ばで、保守と革新が鋭く対立し、世情は騒然としていた。国鉄をめぐる3つの謎の事件が連続したこの年の夏は、のちに「戦後史の曲がり角」とも呼ばれる。

 参院特別委がこの問題を取り上げた表面的な理由は、4月14日の会議の冒頭、矢野酉雄・委員長(緑風会)の発言に表れている。「この事件の真相を天下に正しく発表して、願わくばそれによって、ソ連にまだ残留する同胞たちを1日も早く受け入れることのできる、一つのその受け入れ態勢を少しでもよくしていくというために役立たせたい」(「会議録」)。つまり、未帰還のシベリア抑留者の引き揚げ促進に資するためだったことになる。会議の終盤、理事の1人も「われわれの同胞がなお45万(人)残っておるわけであります」と発言している。